![]() |
||
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
||
![]() |
![]() |
![]() |
||
![]() 当サイトに関する事や、広く楽器・音楽に関わる事、身近な出来事などに対するつれづれなる想い事をしたためた「DESSIN(デッサン)のひとりごと」です。 【お願い】当欄執筆内容の著作性を損なう引用・転用をお断り致します。 ●あとがきVOL.15 ●VOL.14(2012年1月~) ●VOL.13(2011年1月~) ●VOL.12(2010年10月~) ●VOL.11(2008年1月~) ●VOL.10(2007年1月~) ●VOL.09(2006年1月~) ●VOL.08(2005年7月~) ●VOL.07(2004年&2005年~) ●VOL.06(2003年12月総集編) ●VOL.05(2003年10月~) ●VOL.04(2003年7月~) ●VOL.03(2003年1月~) ●VOL.02(2002年9月~) ●VOL.01(2002年オープニング) 2013年12月29日(SUN) 成熟した社会とは、ある種行き詰まった人間側の姿を垣間見るかの様でもあり、客観的に冷静に見据えると、おろかしい“人間”というテーマを改めて突きつけられている様な気がしてなりません。 21世紀は民族の存亡をかけた世紀とかつて位置づけた様に、20世紀までの価値観が再び台頭するかの様な21世紀版パワー・ゲームが、いまや私たちの目に見える形となり始まっています。 火の粉はかからぬと平和ボケした団塊の世代を見るにつけ、貴殿方はあの大戦からいったい何を学び何を託され何を託そうとしているのか・・・おろかしい“人間”というテーマを改めて突きつけられている様な気がしてなりません・・・。 さて、当サイトの実験も『YAMAKI解体新書』に始まり、目下『絃楽器解体眞論』へと引き継がれておりますが、振り返ると数々の実験を行って参りました。 逆説的には、それだけ自身が無知である事の証明でもあります。 それは、結果的には日本のフォーク文化の蚊帳の外にいる(※たぶん今でも)何も知らぬ門外漢である素人たる自身にとって、かつてない新たな足跡を刻んでいる事実を意味するのだろう。 自身のこうした経緯こそが、ギターという楽器を突き詰めていくと、エレキであろうがアコギであろうが他の弦楽器であろうが境界線がなくなることを意味する実証なのだろうと思います。 そんなギターも、基礎科学のような“理論ありき”が必ずしも出発点であるとは限りません。 時に“感性”から“理論”が導き出される事は多々あることです。“理論”と“感性”はそれぞれに補間関係にありながらも、こと音響製品たる楽器における“感性”という能力は、“理論”を補足・補完するかなり重要な役割を果たして来ました。 しかし、現時点のアコースティックギターが修練し尽くされた結果だとすれば、立ち位置からすればいまだ門外漢の自身ながら、それは間違いであるという理論検証を“実験君”を通じて確信しつつあります。 “寺平ヤマキ”や“田原ジャンボ”同様、それが自身に与えられた役目かどうかの見極めはまだ付きませんが、熟成しつつある斬新かつワクワクする実験です。 恐らくは12年間の“感”だよりの手探りでもある数々の実験の集大成になるような気がしていますが、それすらも自身が無知である事の証明として、今はしっかりと見届けて行きたいと思っています。 今年の最終更新は、大晦日の0時と予定していますが、目下予定稿を準備中です。 まずは、今年も何とかこの年の瀬までたどり着けた事、そして今は皆さんと共に、数日後には新年を迎えられるであろう喜びを噛みしめたいと思います。 そして、今年も当欄を通じお付き合い頂けました事に感謝申し上げます。皆様にとって素晴らしき新年となりますよう。 2013年12月8日(SUN) 一般的にアメリカのギター・マーケットは、ヨーロッパの様な品質ではなく、価格で取り引きされると言われてきました。一見、それはネガティブに受け止められがちですが、視点を変えれば価格にこだわれるほど、潤沢に品質が伴っているが故のギター王国・アメリカの姿をも物語っています。 日本における輸出ギターの実態は、1960年代から1970年代の黄金期でさえ、たえず米ドル基軸の為替レートの変動を受けながらも、様々な輸出コストを加算したうえで競争力を備えた出荷価格に見合う製品となると、必然的に安価な価格帯のギターが主体とならざるを得ません。 アコースティックギターで言えば、より安価な合板ギターが中心となり、中級クラスのギターとなると合板ギターと抱き合わせて僅かに輸出されているのが実態です。 中級クラスやそれ以上に絞ったギター輸出となると、米マーケットでは、マーティンやギブソン、ギルドといった蒼々たるブランドが競争相手となりますので、それらを相手に価格と品質の両面で優れたギターとなると、参入が難しい狭き門と言えるだけに“抱き合わせ輸出”という形にならざるを得ないのでしょう。 田原楽器には、「Jumbo(ジャンボ)」ブランド以外にも、輸出モデルとなる「Tahara(タハラ)」ブランドがあります。合板ギター製造を頑なに敬遠していたが故に、おのづと国内出荷に重点を置いていた田原楽器にあって、非常に珍しいブランドです。 1973年10月に起きたオイル・ショック以降の落ち込んだ国内出荷をカバーするための輸出モデルという位置づけかと思われますが、1974年5月~6月頃に製造・出荷されたブランドながら、それ以降は残念ながら継続しなかった様です。やはり中級クラスのギターゆえの難しさでしょうか。 自身の所有する「Tahara(タハラ)」は、シャーラーtypeのロトマティック・ペグが装着されていますが、コストを押さえる目的なのか、ギアやストリング・ポスト周辺部がプラスティック筐体ですので、入手時には1個割れが生じていました。 ギター・コンディションは非常に良いのですが、そんなこともあって長らく放置したままでしたが、今回、見合うべくペグに交換しました。が、とりあえずはそこまで。あとは、お気に入りの木製ブリッジ・ピンを購入して、弦を張ってあげるだけですが、正月休みの楽しみに取っておきます。 この交換前のシャーラーtypeのプラスティック筐体のロトマティック・ペグですが、取り外してみると外見上および機能上全く気づきませんでしたが、他に2個も装着内部で割れていましたので、計3個も使用に見合わない状態で、このタイプは案外割れやすいことが判明しました。 経年変化とともにプラスティック本来の粘りがなくなり、簡単に亀裂や割れが生じやすい結果と思われますが、オリジナルに拘らない限りは交換をお薦め致します。自身は、止めネジの位置にこだわって、同じセンターリグのタイプを色々と物色してきましたが、装着後は想像以上に素晴らしい仕上がりです。 これでまた手放せないギターが1台増えるんだろうな・・・と思いながら、12Fジョイントの小振りなボディゆえ、「Three-S(スリーエス)」の「吟遊詩人」シリーズの様なクリスピー・サウンドだったら、たぶん要らないかも・・・と思いつつも、伝統的音響理論のギター群には差ほど興味関心がなくなりつつあるのも事実で、先月のメディア媒体の話しとも似ていますが、“必然的進化”への過渡期なのでしょう。 そんなことよりも、プリンタも買い換えた事だし、まずは来年の年賀状案を早々に仕上げないと・・・。 2013年12月7日(SAT) 来年へのカウントダウンよろしく今年も残す日を数えるほどですが、年賀状の準備でも始めようかと来年の干支となる「馬」絡みをあれやこれやと考えていると、そう言えば『YAMAKI解体新書』をスタートさせるキッカケも「馬」年だったことを思い出しました。 12年前のちょうど今頃、ぼちぼち「ヤマキ」を立ち上げようか・・・と考え始めていた訳で、以来12年の長きに渡りアコースティックギターに拘わるキッカケにもなりました。 おそらくは「寺平ヤマキ」や「田原ジャンボ」に出会うことがなければ、これほど国産ギターに興味を抱くこともなかったと言えるほど、自身にとっては12年前の時点ですでに興味深い検体であり別格な存在であったことを思い出します。 当時を振り返ると、アコースティックギターのターゲットとなるサウンドも構造理論もド素人ゆえに、自身の“感”だよりのすべてが手探り状態でしたが、以来“感”だよりの手探りも12年も続けていれば何とかなるもんだと思えるほど、実験を通じ“進化”を体感・実感している昨今です。 前回は『芳野楽器物語』に触れたこともあり、芳野楽器がらみでどうしても気になる点を再考してみようと思います。芳野楽器時代の田原良平氏の“立ち位置”とも密接に関わる自身にとっては意義ある再考です。 さて、芳野楽器(「穂高楽器」から改称)の初代社長でモーリス・ギター設計者でもある田原良平氏ながら、今夏8月25日の当欄「あとがき」でも触れた自身には妙に引っ掛かることとして、“本当にモーリス・ギターの検品者として田原良平氏がラベルに直筆サインを書き入れていたのだろうか”という点です。 例えば、モーリス・ギターを特集する雑誌『ジャパン・ヴィンテージ[アコースティック]vol.2 モーリス・ギター大特集/歴代人気モデル詳細分析』等では、ラベルにある“LUTHIER「R.Tahara」”は、「検品者」としてのサインと解説されています。 そのロジックとなる根拠は、恐らく「R.Tahara」以降のモーリス・ギターのラベルに見受けられる一連のサインに共通する要素として「検品者」と結論付けているのだろうが・・・今回はこの点にスポットを当て意義ある考証をしてみたい。 振り返っての自身の抜粋となりますが・・・ 「最初期からクラシック、ウェスタン&フォークともども検品レベルが甘いと感じます。」 「それは塗装ムラであったり、サウンドホール周辺の仕上げだったり、木材や合板材の悪さだったり、糸巻きの取り付けだったりと、製造スタッフ陣の技術レベルの不安定さが露呈している割には、検品者として余りにも寛容・・・当時の物価から言えば決して安い楽器ではなかったハズなのですが。」 「後の田原楽器では、鋭い眼光のもとチェックも相当厳しかったと言われてますが、ことモーリス・ギターにあっては、同時期の競争相手、ヤマハ初の“フォークギター”と比較しても、木工レベルでの仕上がりは、ヤマハの方が格段に優れています。」 「ギター設計には持てる術を注ぎ込んだであろう田原氏にとって、合板主体のモーリス・ギターは、余りにも見据える世界が異なるがゆえ、差ほど関心もなかったのだろうと勝手に納得するしかないのか・・・」などなど。 そこで、そもそも論となりますが、“Inspected by”としたラベルへの検品者名としてのサインであれば、工場長名を入れるものではないだろうか。その多くのケースでは、検品専任者が担当する作業ですが、少なくとも稼動間もない芳野楽器にあっては、本来なら芳野楽器の専務兼工場長である“LUTHIER「K.Takahashi」”と高橋君男氏のサインが入るハズである。 では、工場長「K.Takahashi」ではなく、社長「R.Tahara」とは理不尽な直筆サインながら、別の観点で捉えれば、それも理不尽でなくなる。つまり、 モーリス・ギターの検品者名ではなく、設計者名としてラベルにサインを書き入れているのであれば、極めて理にかなったサインである。 そして、おそらく田原氏が事前に設計者名としての直筆サイン「R.Tahara」のみを書き溜めたラベルへ、検品者がモデル型番やシリアル・ナンバーをスタンプしたり、最初期にはモデル型番などを手書き記入した後、ボディ内部に貼り込まれていたのだろう。つまり、 田原良平氏は、モーリス・ギターの検品行為にはほとんど関与していない実態がおぼろげながら見えて来ます。 加えて、実態としての最終検品者が仮に工場長の高橋君男氏であったとしても、塗装工上がりの工場長ゆえに、検品者として仕上がりの甘さを容認することも十分理解できる状況です。つまり、前・長野楽器製造時代の工場長でもあった「HOTAKA(ホタカ)」ギターと差ほど変わらぬ検品レベルとでも申しましょうか。 では、当の設計者・田原良平氏は何を担っていたのか?との疑問が浮かびますが、田原氏は、モーリス・ギターでも、トップ(甲板)単板以上の上級モデルや役員・川瀬喜一郎氏から製作依頼されていたであろう「Master(マスター)」といった、より手工性の高いギターの総製作責任を担っていたのではないだろうか? つまり芳野楽器には、工場長・高橋君男氏を中心とする合板主体の量産ラインと、全てのギター設計を担う社長・田原良平氏を中心とする手工性の高い少量生産ラインの品質を異にする二つの生産ラインが並行稼働していたと思われます。 芳野楽器の社長就任の条件として、田原氏の展望となる高級手工ギター製作と、取締役として芳野楽器に参画する川瀬喜一郎氏の思惑となる「Master(マスター)」製作という双方の思惑が重なるとともに、両者の思惑を反映させる設計技術や製造技術をモーリス・ギターの品質向上の礎に見据えた森平利男氏のしたたかな思惑さえもが重なった結果、量産ラインのいわゆる合板主体のモーリス・ギターは、実態として工場長の高橋君男氏が検品者を含め統括管理しており、ラベルにある“LUTHIER「R.Tahara」”はあくまでギター設計者名である。 ・・・とすれば、自身としてはすべてが納得できるような気が致します。 仮にそうした理論考証通りとなると、モーリス・ギター設計者名となる“LUTHIER「R.Tahara」”ラベルとそれ以降のラベルでは、サインの意味合いが全く異なることになりますが、いずれにせよこれを機会に、かつての自身の見解を含め“LUTHIER「R.Tahara」”は、検品者名たるサインではなく設計者名たるサインであるとする本邦初の考証・見解とともに結論付けたいところです。 2013年11月24日(SUN) 今年も残すところ1ヶ月ちょっとという11月最後の日曜日です。 この時期ならではかも知れませんが、今年やり残したことは・・・と思いめぐらすと、あれもこれもと出てくるばかりながら、今後の懸案となる主要な理論分析は、すべて想定内と確信しつつありますので、来年以降の新たな目標設定が実現しそうな雰囲気です。 当欄で気になることはと言うと、既に告知済みの『芳野楽器物語』かも知れません。ゆとりがあれば年末のわずかな休みを利用して、亡き森平利男氏へのレクイエムとすべく『芳野楽器物語』を“形”にしてみようかと思ってます。 12月31日の今年最後の当欄「あとがき」にてお披露目ならぬ実験も可能ですが、わずかな休みを利用しての執筆作業となるであろうゆえ断言は致しません。 仮に完成するようであれば、以降、何らかの“新たな道しるべらしき形”と成り得るかも知れませんが、自身にしか成し得ない新鮮な実験のタネを蒔いていきたいと思っています。 今回の実験対象は、「HODAKA(ホダカ)」ないし「HOTAKA(ホタカ)」ギターながら、経験豊富なギター職人とは異なる素人ゆえの戯れ言として寛容なお心で当欄実験にお付き合い頂けますと幸いです。 この歴史あるギターに関する考察や分析は、残念ながら皆無に等しい。アンプラグドに始まる第二次フォーク・ブームともてはやされて以来だいぶ久しい今日ながら、うわべを眺めるばかりのカタログの様な雑誌や情報こそあれ、未だ何の進展もないのは、田原良平氏が設計した初期モーリス・ギターの考察・分析も同じ様なものだろう。 かつて2007年10月14日ないし2008年10月5日の当欄「あとがき」で取り上げた当時、「ホダカは、自身にとって予想を遙かに超え意義深く貴重な情報に満ちたギターであった」「うわべだけのカタログ的情報誌もあるが、蓋を開ければ様々な点で実に奥の深いギターであり、実は水面下でのいくつかの懸案が、実物を通して確信に近づいた」と述べている様に、じつは極めて特殊な素性のギターである。にもかかわらず、未だ認知されることのない実情を物語っている。 ちなみに、この「HODAKA(ホダカ)」ないし「HOTAKA(ホタカ)」ギターをプロデュースしたのは、「モリダイラ楽器」の森平利男氏と「カワセ楽器店」の川瀬喜一郎氏の“時代の寵児コンビ”で、その製造を請け負ったのが(有)長野楽器製作所であることは、当欄にて散々書いてきたので賢明な方々にあっては周知の事実でしょう。 「HODAKA(ホダカ)」は、年末商戦に合わせた1965年11月頃に試験投入されたが、瞬く間に話題を呼び、翌1966年3月頃には「HOTAKA(ホタカ)」と改称し本格投入されるや、まさに一世風靡するほどの人気商品、定番ウェスタンギターの座を射止めたのである。 ヤマハが、同1966年10月にリリースする同社初となる「ヤマハ・フォークギター」開発の際の調査・研究対象となるほど、新たにギター・マーケットを席巻していたウェスタンギターながら、そのギターの素性分析・考察となると、はや半世紀を迎えようとしてもなお見る影もないというのは、“赤ラベル”と比較しても、いささか寂しい限りである。 さて、HODAKA(ホダカ)ないし初期HOTAKA(ホタカ)に限定されますが、これらのウェスタン&フォーク・タイプの構造原理から、“才能を認め合う二人の才覚者”が一体何を求めたのか、その考察・分析は差ほど難しいことではないが、実物に直接関わったとして、おそらく解らない方は一生解らないまま過ぎてしまうことだろう。 興味深い点は、何と言っても“変形Xブレース”ながら、この構造を知る方々さえ極めて少ないに違いない。X形もマーティンの様に大きく交差した形ではく、正確には交差さえしていない。加えてX形の交差ポイントは、一般的なブリッジ上部のサウンドホール側ではなく、ブリッジ下部に位置している。 こうした構造原理を分析するならば、“時代を切り開くキー・マン”が求めたその素性となる要素は、純粋にマーティン系ウェスタンギターを目指していたのではないことが理解できる。 では、“ギター業界の風雲児”が、新たに一体何を求めたのかと言えば、 スティール弦専用ではない、ガット弦にも対応可能なウェスタンギターであり、ガット弦にも対応できる様に、鳴りの出力反応を高める仕様というのが、このギターの真髄・真骨頂なのである。 では、何故ガット弦への対応が必要なのかと言えば、当時の時代背景でもあるギターに対する需要動向が大きく影響しているのだろう。つまり、 ギターといえばガット弦を張ったクラシックギターが標準器であり、ガット弦への需要・依存度が非常に高い時代背景にあっては、スティール弦専用ではなくガット弦兼用の仕様構造というのが、“時代に敏感な才覚者”の導き出した答えだったのである。 まさに“時代”を読んだ二人の狙いは的中するかの様に、自身の入手したHODAKA(ホダカ)ウェスタンギターには、まぎれもなくガット弦が張られていました。 そして、この後“変形Xブレース”は、更なる変貌を遂げることになる。その最大の理由は、ヤマハ初の“ヤマハ・フォークギター”というスティール弦専用ギターの登場という新たな“時代”到来とともに、時を同じくスティール弦仕様となるマーティン系“Xブレース”へと脱皮するのである。 そして、それはやがて長野楽器とともにHOTAKA(ホタカ)ギターが崩壊してゆく序章の始まりでもあったのは、いずれ『芳野楽器物語』をもって詳しく語ることに致します。 さて、HODAKA(ホダカ)ギターを入手した今から5年前に看破した、あるいは勝手な思い込みかも知れぬ古い考察・分析ながら、以降、何らかの“新たな道しるべらしき形”と成り得れば幸いであると同時に、自身にしか成し得ない新鮮な実験のタネ蒔きの一環であることに変わりはありません。 2013年11月17日(SUN) 紙媒体で屋台骨を築いてきた企業が、時代の必然的成り行きとなるWEB媒体の移行を同時進行させている。 当初は新しいメディア構築への期待感とともに意気揚々としていた関係者も、いざ完成し勢いづくかと言えば、予想していた程にも達せず、関係者ならではの苦悩となる愚痴があちこちがら出始めている。 WEBってそもそも儲かるのかと言えば、大手コンテンツ企業だけと言うのが本音だろう。つまり、せいぜいアラフォー世代ぐらいまでのネット活用層である“大衆”を引きずり込む魅力ある商品となるコンテンツがなければ、何も始まらない。 WEB媒体ほど異業種へ参入しやすい土壌であれば、他社が参入しずらい様な独占形態・企業形態でなければ、独自コンテンツを間口に異業種参入も可能なだけに、ネット社会への移行が進むほどに再編・統合を含む「勝ち組」「負け組」の図式がハッキリするでしょうね。 広告収入は、紙の1/10がWEB、さらにその1/10が携帯と言われている様に、案外“紙”に絡んだ様々な旧式の縛りがある媒体ほど壁が厚く異業種参入を拒んでいますが、それとて先細りは見えているだけに、「紙」「WEB」双方の悩みは尽きない様です。 良い意味で捉えれば、「紙」「WEB」双方の利益バランスが良い“過渡期”ということでしょうね。面白い事に「紙」「WEB」を「アナログ・ギター」「デジタル・ギター」と置き換えても、似たような距離感で推移しています。そして、双方ともに“様変わり”するのには、30年前後はかかるでしょう。 近年、ガット弦ギターを手にする機会が増えましたが、それが自然な成り行きの様に感じます。タレガは、一日中ギターを弾くことを切望したと聞きますが、ガット弦ギターの魅力とはそういうものではないか・・・と思うこの頃です。 日本の音楽シーンでは、圧倒的にスティール弦ギター、特にアメリカ系フォークギターが主流ですが、ほんとうに勿体ないとしか言いようがないです。確か同じ様な事を・・・2005年6月26日の当欄「あとがき」でも触れていますね。 どう見てもフォークギターながら、ガット弦が張られていれば、もしやそういう設計・仕様かも、と興味をそそられ入手したギター。届いてみると、ガット弦が張られただけのフォークギターで、当然ながら魅力となる音色を引き出せていません。 木材、作り、希少性、どれを取っても一級品ゆえに、スティール弦を張れば申し分ない銘ギターであろうだけに悩みます。目指す設計思想となる指向性が既に異なるだけに・・・。 追跡調査もあと僅かながら、最後の難題だけあって、対象となる物件にはなかなかお目にかかれません。 それを言葉にすること自体、「絃楽器解体眞論」的にも本邦初となる非常に有意義な内容ばかりですが、無用な競争相手を生み出す以外に何の徳もなければ、いずれ追跡調査完了後に、調査結果としてご報告させて頂く予定です。 さて、今回は冒頭の“様変わり”続きとなる、ネットで偶然目にした摩訶不思議なWEB情報を取り上げます。 ギター産業界におけるコンピュータ制御のNCルーター導入に関しては、“富士弦楽器製造(現フジゲン)が、業界初で導入”“ギターメーカーとしてはフジゲンが世界初の導入”と公然と語られています。 発信元を辿ると、どうやら“フジゲン”や“フジゲン関係者”による情報を受け、何の根拠も脈絡もないままに様々な負の連鎖を拡散している様で、当の「フジゲン」サイト内の『フジゲンの歩み』なる社歴年表には、「1981年6月 ギターメーカーとしては世界初、NCルーター導入」と堂々と謳われています。 こんな誤報がまかり通るほど、もはやギター産業界も業界絡み、利益絡みの様々な言えぬ事情を抱えていればこそ、歪曲された情報にも敢えて目をつむらざるを得ないのであろうか・・・。 この数値制御装置によりコントロールされる切削マシンをギター産業界に導入されたのは、言わずと知れた「Tokai(トーカイ)」こと「東海楽器製造」である。 一般的には、プレイヤー・コーポレーション発行の『HISTORY OF ELECTRIC GUITARS』に「東海楽器製造株式会社」が掲載されており、賢明な方々にあってはご承知かと思われますが、“トーカイはまた世界で初めてNCルーターをE・ギター製作に採り入れた事でも有名である。”と述べられている通りである。 このコンピュータ制御による正確無比なNCルータ切削マシンは、フジゲンの社歴年表の事実から比べれば、遙か三年半以上前に当たる1977年末から東海楽器製造では本格稼働しています。 そして、このコンピュータ制御によるNCルータの意味するところは何かと申せば、自動車産業のもつ金型技術のフィードバックであると同時に、旧態依然の加工技術しか持たない木工メーカーが偶然手にした技術ではない。 この冶金や金型の加工技術であるNCルータは、当時の東海楽器の社長・足立忠之氏が、自動車の金属加工技術をもつ本田技研の長篠宮茂氏と小学校の同級という縁により、本田技研のもつ様々な加工技術の薫陶を受けた末に導入・完成に至った生産システムである。 静岡県浜松という同じ立地と旧知の縁がもたらした産物たるものが、どうやって長野県松本市へと結びつくのか全く解らないが、知らぬ存ぜぬでは済まぬレベルのギター産業界の常識であれば・・・相も変わらずギター業界・産業界には、目には見えぬ様々なしがらみと思惑が潜んでいるのかも知れません。 2010年、2011年、そして2012年12月25日の当欄「あとがき」で触れている様に、ギターの路すがら藪のなかに虎視眈々と獲物をうかがいうごめく無数の大蛇・魑魅魍魎たちが、残念ながら様々な形ではびこっているのが現状です。 無知で従順な者達を情報誘導しようとするならば、それはきっと政治や企業、個人のオレオレ詐欺レベルでさえ“だまされる方が悪い”とならぬように、業界とは無縁の身なればこそ、些末ながらも新たな指針となるべく声を上げる次第ですが、せめて本稿以降は一連の関連情報が“様変わり”される事を祈るばかりです。 2013年11月3日(SUN) 何だか良くわからないイベント“ハロウィン”も過ぎ、徐々に年末モードとも言える模様替えが始まる頃ですが、11年ぶりの来日によるポールマッカートニー・コンサートを楽しみにされている方々もいらっしゃるでしょう。 自身はというと、ストーンズであろうがクラプトンであろうが大御所と言われる70年代のロック・スターには、もはや全くと言って良いほど興味がなく、もちろん、初来日の頃のウィングスであれば話は別ですが、わざわざ醜態を見に行く気持ちがまったく理解できない類です。 若い頃から入り浸っていた姿を知る妻には“変わってるネ”と言われる始末ですが、未練など一切なく、さりとてかつての栄光を賞賛する気持ちだけは色褪せません。 ちょうど一年前の今頃は一体何をしていたのかと振り返ると、当欄では“ヤスマ(Yasuma)ギター”を発信しておりました。 その後どんな新たな見識・見解が語られるのか楽しみな実験でもあったのですが、一年を過ぎてもなお変化はなく、案外、検証されている最中なのかも知れませんね。 安間公彦氏も三年前に他界され言質を問う術もなくなってしまった以上、既に“知識の連鎖”が切れていれば、検証する側も多分にご苦労があると思われます。 自身が安間氏の功績を讃えるなら、信州(長野)の優れた技術となる“田原ロジック”を習得した事で、それまでにない“技術力”として地元近隣(近畿・東海)の愛知や静岡のギター製作関係者の新たな手本となり得たことではないだろうか。 この方面では、むしろ身近な安間ギターを通じて普及した技術や恩恵も少なくなかった様に思います。 “田原ジャンボ”と同じく、「コッス楽器販売」のオリジナル・ウェスタンギターとして同時リリースされた“安間ニュアンス・カスタム”。 当時の「コッス楽器販売」と言えば、残念ながらほとんど認知されていないが、いち早くマーティンのアコースティックギターからエレキギター、ウクレレ、テナーの国内輸入販売の先鞭をつけ先導役を担った存在で、一流と称されるギブソンやグレッチ等を取り扱う楽器卸業として超優良企業でした。 安間楽器が、それ程のコッス楽器に見初められた経緯は正直なところ不明ですが、コッス楽器から卸販売され、カワセ楽器店のガラス棚に飾られ販売されていたであろうマーティンやギブソンといった高級ギターの取引関係から、同店の取り扱う国産ギターを通じて川瀬喜一郎氏からアドバイスを得たという自身の推測はあながち否定は出来ないと思います。 何故なら、モリダイラ楽器同様、コッス楽器販売もまたカワセ楽器店とは目と鼻の先にある“ご近所”なのである。となれば、高級ギター製造の道筋として田原良平氏にコッス楽器を紹介したのも、おそらくは川瀬氏に違いないであろうだけに、実はギター産業界にまで多大な影響を与えた“偉大なるアドバイザー・川瀬喜一郎氏”と言えるのかも知れません。 それ以前の安間ギターの価格からすれば、コッス楽器との契約を機に最低でも販売価格1万3,000円のギターにシフトした意義と恩恵は相当大きなものとなったに違いない。 1969年当時の物価で最低でも1万3,000円という価格の持つ意味は、さながら準手工メーカーに格上げされた程の脱皮転換点となった事であろうし、同時に従来より自身の指摘する“分岐点”の意味もご理解頂けるのではないだろうか。 それなりに入念に検証した上での実験であれば、自身の勝手な思い込みも含め新たな知的考証を期待しています。それこそが最良の実験結果とも言えるでしょう。 さて、今回は・・・そもそも誰が言い始めたのか定かではありませんが、「梁型」または「ヤマキ型」と称しているネックブロックに関して考察してみようと思います。 意味が通じれば何でも良いので、総称として「梁型」と致しますが、たぶん意味はご理解頂けるものとして話を前に進めます。また、経験豊富なギター職人とは異なる素人ゆえの戯れ言として寛容なお心で当欄実験にお付き合い頂けますと幸いです。 当サイト「カルトQ&A」欄の質疑応答No.71でもすでに触れている様に、この「梁型」に準ずる仕様のネックブロックのギターは、検体から拝見するかぎり1960年代中期以降頃のごく一部の国産クラシックギターやウェスタン(フォーク)から始まり、1970年代まで導入されており、一見「ヤマキ型」と思われるものから類似的なものまで、様々な「梁型」仕様のギターを確認出来ます。 果たしてそれらがネックブロックを含めた後付の補修・補強なのか、製作段階から考慮された仕様なのか二面的な見解がありますが、後者の理由による意図的な仕様形状と思われます。 その導入意図たる考察らしきも見当たらないだけに、本邦初かどうかはさておき勝手気ままな考察を実験表明するならば、共通する要素・要因から導かれる答えは、海外輸出(主にアメリカ向け)、つまり、「梁型」に準ずる仕様のネックブロックのギターは“輸出仕様”と思われます。 1960年代中期以降頃のギター・ブームで海外輸出も華やかなりし頃から散見され始める仕様であり、同時にそれは輸出に絡む様々なギター・トラブルが噴出した時期とも重なります。 対象となるギターは、それぞれ輸出色の強いギター・メーカーに見受けられる、と言う点でも全て共通しています。 ヤマキ楽器に限れば、1972年頃から導入された仕様ですので時期的には符合しませんが、実際にヤマキ・ギターの輸出が本格的に始まる点では共通しており、同時期のダイオン・寺平太一氏の渡米による尽力の賜物でもあります。 という事は、「梁型」ネックブロックやそれに準ずる一連の仕様は、アメリカのギター・ブームの恩恵による急激な輸出増加という状況下、同時に深刻な問題と化し始めていた様々なギター・トラブルに関するクレームに対するトラブル回避というギター・メーカーなりの思案の末の到達点たる仕様であり、より頑丈な製品として海外輸出するための仕様であったのだろうと思います。 おそらくは製造に際し、輸出向け、国内向けの区別も意識せず効率的な生産性を重視した結果、本来は輸出向け仕様の製品が僅かに国内にも出荷されたことで、興味深い検体が国内でも複数確認できるのであろうと思います。 ただし、その仕様が後々国内製品にフィード・バックされず、根付くことのない一過性の仕様であったのは、恐らくは輸出トラブル回避というだけの単純発想による後付け的な補強案・対処法に過ぎなかったが故に、各社一様に否定的に捉えていたのだろうと思います。 そんな中「梁型」ネックブロックという仕様を肯定的に捉え、洗練された標準仕様としてフィード・バックさせたヤマキ・ギターながら、案外ギター・メーカーとしての“先見の明”が分かれる所と言えるのかも知れませんね。 ネックブロックに関しては、「カルトQ&A」欄の質疑応答No.89でも新たに加筆していますので、興味ある方は覗いて見てください。 いよいよ年末を意識し始まる11月初旬ながら、自身はというと、国産ギターの検証作業も昨年で終了し、今はその“反動”と“進化”もあって、旧音響メカニズムのギター群には全く興味がなくなりつつありますが、久々にギターを入手しました。 メーカーやブランドは申せませんが、以前から着目していた敢えて鳴らないギターの代表格で、内心これを“実験君”と呼んでいます。しばらくは実験君を介してじっくり楽しむ予定です。 2013年10月14日(MON) 今秋は、夏の猛暑を引きずるかの様に、青空には元気なモクモク雲とともに汗ばむほどの昨今です。天高く馬肥ゆる涼やかな秋の気配を感じつつも、おかげで一向に扇風機を片づける気にはなれません。 今夏は、7月1日から9月30日まで「数値目標を伴わない節電要請」が政府発表され、節電要請の中身も年々曖昧になりつつありますが、昨年の今頃の自身を振り返ると、溜まりに溜まった“節電疲れ”の反動で体調が思わしくなく、その教訓を活かして、今夏は“生活環境優先”ってな訳で、節電らしきことを一切気にしませんでした。おかげで体調はすこぶる良いです。 この連休明けにもアップルの新製品発表がありそうです。PC環境一新を計画中であればタイミングも良く、10月末までの予定ゆえ新製品発表を期待しています。 今年のシメにはまだ早いですが、数年来ギター産業界では解りやすい現象が起きています。 「Guyatone(グヤトーン)」で知られる「東京サウンド(株)」の今年1月末での営業停止は実に象徴的で、1960年代には「テスコ」と覇を競いあい双璧を成した一方の雄も遂に陥落した訳です。黎明期よりエレキ産業を牽引してきた歴史ある企業だけに、大変残念です。 2006年8月27日の当欄で「量産化システムを確立した製造業界にとって組織とは年追うごとに負の遺産と化しつつあるのが実情かもしれない。」と申し上げましたが、現状も相も変わらずで、純粋にギター産業のみでは生計は立たなくなっています。 例えば、「ESP」などは音楽や楽器の教育事業という複合音楽事業が基盤となっており、「フジゲン」などは、自動車産業への木製加工パーツ供給事業による収益が全体の過半数以上を占めるまになり、純粋なギター産業とは異なる形で収益の分母を広げています。 背景には、ギター産業が差ほどの成長も見えないほど成熟した産業であるがゆえのジレンマがある。 「既存メーカー側にしか為し得ない楽器としての“差”、イニシアチブとなりえる“存在価値”を問われ始めていると同時に、生き残る術を模索しているというのが、恐らくは正しい現状認識となるのだろう。」とは、2011年末の締めくくりで語ったことながら、以来、良くも悪くも目に見える形で現れ始めている。 「イニシアチブとなりえる“存在価値”」がドングリの背比べ程であれば、ユーザー毎に小回りの利く小さな組織のほうが身軽で都合がよい時代だろうし、「生き残る術を模索している」結果が伴わなければ、東京サウンドの様な結末が待ち受けている。 一方で、楽器の幅を広げようとしてるメーカーもあり、「Taylor(テイラー)」「PRS(ポール・リード・スミス)」を引用してきましたが、目安となる三年が過ぎた「PRS」では事実上失敗しているが故に、本業のエレキギターに完全にシフトした観があります。 量産メーカーには、少量生産側には分かり得ない“明確な結果”が伴うのがゆえの、かつてのマーティンのジンクス再来さながらです。現状を拝見する限り、恐らく数年後には「Taylor」も同じ結果を見ることになるでしょう。 これらは全て、ギター産業が差ほどの成長も見えないほど成熟した産業であるがゆえのジレンマなのでしょう。ゆえに、マーティンは決してエレキギターを作りません。それは成熟したギター以上のものを“創れない”のと同義語で、創れないがゆえに作らないのです。 “組織”と言える日本のギター産業界は、いまや複合企業体である「ヤマハ」になろうとしているかの様です。 もちろんヤマハがそうであるように、知恵の集合体である“組織”の才能如何ではそれも決して悪くはないですが、経営者側の力量が試される試練ともなるだろうし、東京サウンドとて決して手をこまねいていた訳でなければ、総じてギター産業界は、難しい舵取りと試練が待ち受けていそうです。 7月の当欄で「落ち着いてギターや音楽を客観的に冷静に見渡せば、案外“退屈な業界”かも知れない・・・」と綴ったのは、ギター産業あるいは音楽産業が差ほどの成長も見えないほど成熟した産業であるがゆえのジレンマという、必然的な文明論的一端を物語る姿かも知れません。 自身はというと、2002年3月31日の当欄で取り上げたベーゼンドルファー・ピアノにまつわる「ピアノが近代化され進化してきた様に、アコギにもまだまだ進化の余地があるのかな?」という10年前の直感に基づく理論検証となる“必然的進化”を遂げようとしています。 伝統的音響理論をさらに脱皮する“必然的進化”であれば、最も理想的進化形の理論検証を楽しんでおりますが、経験豊かな職人とは対照的なド素人の他愛もない戯れ言ですので、どうか気にしないで下さい。 さて、前回は「強引な引き抜き工作の末、芳野楽器を立ち上げたと称される森平利男氏」と単純に評しましたが、図らずとも客観的にはそう映らざるを得ないでしょうね。 しかし、その実態はエレキ産業衰退とも密接に絡んでおり、関係者の様々な思惑が複雑に入り組んでいるだけに、今は亡き森平利男氏を偲びつつ、いずれは『芳野楽器物語』という新たな実験を発信してみたいと思います。 2013年8月25日(SUN) 今週末は、人間ドックの健診を受けて参りましたが、暑い最中の外出は本当に身に応えます。とはいえ一時のうだるような暑さも過ぎ、ここ東京では夏の終わりを告げるように、ツクツクホーシの鳴き声を耳にする様になりました。 暑さが少し緩んでくる日も増えてくるでしょうから、週末には徐々に活動を再スタートです。手始めにパソコン環境の一新でしょうか。 さて、初期のモーリス・ギターには不可思議なギターがあります。 それは、「芳野楽器」が設立され「モーリス・ギター」がリリースされる1967年当初からではなく、その翌年となる1968年5~6月以降に登場するものながら、極めて謎めいたギターである。 モーリス・ギターのラベルには、芳野楽器設立当初から代表取締役を務めた田原良平氏の検品印となる「R.Tahara」の肉筆サインが全てに記されています。 田原氏が退職する1968年末まで一貫して変わることがない中、それはラベル内中央に毛筆風で大きく「雪渓(せっけい)」とブランド表記され、左隅には「信作」の銘と朱印を印刷明記され、さらにヘッドにある「Morris」を隠すように上から「SG-205」という型番とおぼしき銀箔風シールを貼られたものである。 さて、この「SG-205」「雪渓」は、モーリス・ギターであるにも拘わらず、なぜ「モーリス」を隠蔽し、「保苅信作」氏の「信作」と銘打たれているのだろうか?あたかも田原氏同等の扱いを受けたサブ・ブランドといった観が漂う摩訶不思議なギターを、恐らくは本邦初として考察して見たい。 「SG」はさしずめ「Shinsaku Guitar」の略だとして、「205」は何を意味するのか皆目検討がつかないが、何らかの数字的な根拠となる理由があるのだろう。 最大の疑問として、なぜ代表取締役の田原氏同等の銘となる「信作」をラベルに記すことが出来たのか、が気になるところですが、おそらく同1968年4月に倒産し「テスコ弦楽器」まで連鎖倒産するキッカケとなった「長野楽器」の工場長が、保苅信作氏だったのではないだろうか? 時系列から推測すれば、長野楽器倒産直後、「黒澤楽器」のテコ入れ介入で残留するかどうかの決断で、結果、芳野楽器に迎えられたが故の待遇・・・としか考えられないが、 もう一つ見落とせない重要な点がある。 この「SG-205」「雪渓」ブランドのギターは、フォーク・コンサート、ウェスタン12弦、クラシックの三種確認出来ます。いずれも中身はモーリス・ギターながら、「雪渓」というブランド名が「設計」になぞらえてブランディングされた可能性が高い。クラシックやウェスタン12弦は定かではないが、ことフォーク・コンサートに限っては、保苅信作氏が設計(雪渓)したギターという事なのではないだろうか。 例えば1968年6月頃にリリースされたモーリス「フォーク・コンサート(FCシリーズ)」など、小振りなフォーク・ボディにクラシック仕様のネックを12フレット・ジョイントしたものですが、こうした突拍子もない“きわもの”的なギター設計は、田原良平氏には出来ないと自身は確信しています。 同時期には、ウェスタン・ボディに同じ様な試みをしたものまで確認しているが、こうしたギター設計は保苅新作氏が設計(雪渓)したことを示唆してると推測できないだろうか。 では、そもそもの芳野楽器工場長にして、元・長野楽器の工場長だった高橋君男氏の立場がまるでないが・・・高橋氏は、そもそもが「双葉塗装」にいた塗装職人で、かつて「富士弦楽器」や「丸山製作所」の楽器業界に請われ塗装の腕を振るってきた人物である。 丸山正氏が富士弦楽器を飛び出し「テスコ弦楽器」を設立するや、同じく富士弦楽器を飛び出し、巡り巡って長野楽器の工場長の職を得たのであるが、専ら塗装専門の、その腕は確かながらギター職人と呼ぶには程遠い塗装職人ゆえやむを得ないかも知れません・・・。 さらに重要な視点を加えるならば、「SG-205」「雪渓」ブランドのギターが果たした役割として、流通が途絶えたそれまでのホタカ・ギター販売網への移行品という役割を担ったことも想定されます。 強引な引き抜き工作の末、芳野楽器を立ち上げたと称される森平利男氏ながら、当時は『穂高事件』として業界内に広く知れ渡っていた事を踏まえれば、森平氏にとっては、長野楽器の保苅信作氏の銘を使い、「信作」イコール「穂高」という受け入れやすい形から徐々に「信作」イコール「モーリス」と移行&浸透させる形で、従来の「穂高」マーケットを獲得したい森平氏の思惑が潜んでいる様にも感じます。 その思惑も1971年5月に、商標権を持つモリダイラ楽器より「HOTAKA」復活を告げる新機5種を投入することで、「SG-205」「雪渓」ブランドの役割も終焉を迎え、同時にそれは長野楽器との因縁にも終止符が打たれことを業界内に宣言する意味を有していたに違いない。 こうした推測を前提とするならば、田原良平氏がいかに“王道”を極めるギター設計者であったことが、後の田原楽器を通じても伺えます。 さて、ここまで長々書いておきながら、ふと最後に思い浮かんだことがあります。「SG-205」の 「SG」は、黒澤楽器の取り扱う「Splendor Guitar(スプレンダー・ギター)」の略もありえるなぁと。 黒澤楽器が倒産後の長野楽器のテコ入れに介入する経緯を踏まえると、ギター製造の滞る状況下、黒澤氏ないし森平氏のいずれかの生産協力のオファーにより黒澤楽器向けに出荷された製品の可能性も考慮すべき範疇だろう。 むしろ「黒澤楽器説」で捉えれば、全ての推測が極めて合理的とも思えるが、すべては単なる推測に過ぎません。 ちなみに保苅信作氏は、現・モーリス楽器製造の取締役製造部長であるが故に、上記推測を払拭し得る調査取材は可能ではありますが、楽しい想像に留めておくのも一興、いずれかが一歩踏み出すのも一興・・・。 モーリス・ギターを取り上げたついでに触れておきたいが、順調に量産される事になる田原氏設計のモーリス・ギターながら、最初期からクラシック、ウェスタン&フォークともども検品レベルが甘いと感じます。対象となる多くの検体を精査した訳ではないので、あくまでスポット的な印象ではあります。 それは塗装ムラであったり、サウンドホール周辺の仕上げだったり、木材や合板材の悪さだったり、糸巻きの取り付けだったりと、製造スタッフ陣の技術レベルの不安定さが露呈している割には、検品者として余りにも寛容・・・当時の物価から言えば決して安い楽器ではなかったハズなのですが。 後の田原楽器では、鋭い眼光のもとチェックも相当厳しかったと言われてますが、ことモーリス・ギターにあっては、同時期の競争相手、ヤマハ初の“フォークギター”と比較しても、木工レベルでの仕上がりは、ヤマハの方が格段に優れています。 ギター設計には持てる術を注ぎ込んだであろう田原氏にとって、合板主体のモーリス・ギターは、余りにも見据える世界が異なるがゆえ、差ほど関心もなかったのだろうと勝手に納得するしかないのかと言えば、“いや、総じてそういうレベルの時代だった”と、どこからか聞こえてきそうな気がします・・・。 ※登場人物は、公表された活字情報である事実以外、その事実関係を保証するものではありません。 2013年8月18日(SUN) 元CIA職員のスノーデン氏にからむ問題は、歪んだ現代社会を様々な点で浮き彫りにしていますが、一連の報道で自身が最も驚いたのは、アメリカの世論調査で、スノーデン氏を支持する過半数に対し、「国益を損ねた。裁判に処するべきだ。」とする反対層も過半数に近かったことです。 自由の国と称されてきたアメリカですが、実態はかなり保守的に変貌しているんですね。 今や個人情報は、貨幣や紙幣がごとく価値を有し流通している。 ビッグデータはあらゆる情報を吸い上げるが、そもそもは軍事技術に絡んだ追跡ソフトが個人を特定する状況にあって、我々の預かり知らぬところで個人情報が丸裸にされるのは、そう遠くない現実かも知れません。 どんなに綺麗に着飾ったところで、まるで素っ裸同然で歩いてる・・・知らぬは自身だけ?じぇじぇじぇじぇじぇ~です。 さて、かつて触れた様に事実という一片をジグソーパズルの様に組み上げていくと、それまでは見えなかった全体像となる景色が映し出されることがあります。 今回は、そんな予感を感じさせる話ながら・・・田原良平という人物に最初に着目したのは、「カワセ楽器店」の店主・川瀬喜一郎氏であることはほぼ間違いないだろう。 それは、カワセ楽器店のオリジナル・ブランド「Master(マスター)」の製作を託す人物として過去の実績・実力を知るだけに、「全音」を退職し岡谷市で楽器用合板製造の「日本プライ」を立ち上げた田原氏は、卓越した技術と木工資材が一石二鳥で入手可能な、川瀬氏にとってこの上ない適材適所となる人物だったに違いない。 そんな田原氏の新たな転機も、皮肉なことにその全音が大量輸出契約にともなうガットギター専門工場を中洲第二工場横に完成する1966年2月頃には吸収合併され、技術課長となりながらも全音退職に揺れていたのだが、そんな事情を知る川瀬氏なれば、「穂高楽器」(後に「芳野楽器」に改称)の社長就任を森平氏に推薦したという脈絡が成り立つ。 川瀬喜一郎という人物に最初に着目したのは、他ならぬ森平利男氏である。「山野楽器店」を退職し、「モリダイラ楽器」を立ち上げる際の欠かせぬビジネス・パートナーであり、ことギターに関する豊富な知識と経験に信頼を寄せ合う関係である。 (近々立ち上げ予定として)森平氏よりギター工場の社長就任の打診を受けたであろう1966年10月頃、田原氏はすでに高級ギター製造を見据えていたと言う。 時代はまだ国産高級ギターの土壌すらない、ヤマハがやっと初の“フォークギター”をリリースする頃であるが、川瀬氏のこと細かな注文に応じ「Master(マスター)」という手工ウェスタン・ギターを製作して来た経緯があれば、次に見据える新たな世界観であったのは想像に難くない。 自身の知り得る限りながら、田原良平氏が「Master(マスター)」を製作していた史実は残念ながら目下どこにも見当たりません。いまや言質を問う術もないという現状ですが、本邦初となる最も現実味を帯びた想像と言えるのではないだろうか。 かつての想像(妄想とも言います)がことごとく事実と化してきた経緯を踏まえれば、歴史に新たに加わる想像となるのかどうか楽しみな実験でもある。 2013年7月7日(SUN) ちょうど一年前に表明した実験も早々に一段落し、落ち着いてギターや音楽を客観的に冷静に見渡せば、案外“退屈な業界”かも知れない・・・と思う今日この頃です。 所詮は退屈しのぎ・・・と、談志師匠のシニカルな顔が浮かびますが、音楽雑誌も同じ顔ぶれのたらい回しで数年来ネタが尽きています。 自身が改めて感じる事は、近年の若い音楽志向の方々が、やたらギターに詳しい事です。そんな知識、音楽創るのに必要?と思える様な事までご存知で、マニアックな楽器志向の時代なのでしょうか? 音楽産業のビジュアル志向を肌で感じているからかも知れませんが、音楽を創り出すモチベーションが全てを凌駕すれば、正直、ギターなんで何でも良いです。 何でも良いと言いながら、それなりのギターが手に入る時代ですが、オヤジや兄貴のお下がりだって、ゴミ置き場から拾ってきたギターだって、メロディを奏でるには遜色ないギターのハズです。 現代の音楽産業は、効率よく管理された“組織化された社会”ゆえ、音楽で道が開けばギターなど後からついてきますので、どうか音楽活動に専念下さい・・・と密かに願う今日この頃です。 さて、前回は田原ジャンボのネック&ヘッドについて触れましたが、田原ジャンボがリリースされた1969(昭和44)年は、すでに木材高騰が問題化となる状況で、そうした時代的背景をきちんと把握することもギター産業を紐解く上では重要なポイントです。 その最大の要因は人件費の高騰、つまり、人々の暮らしが豊かになり、物価が上昇してきた反動を意味します。 加えてピアノ・メーカーによる森林伐採による良材不足が、追い打ちを掛ける様に高騰する温床となっていた様で、楽器の響板となる蝦夷松、天塩松などの良材不足も問題化し始めています。 そんな状況下、敢えて歩留まりの悪いコストのかかるネック&ヘッドに拘った田原ジャンボながら、生産量は少ないとはいえ、準・量産メーカーであれば、木材や人件費の高騰への反動は避けがたいほど大きいものです。 事実、田原ジャンボがリリースされてから半年後には、早くもマイナー・チェンジが加えられており、田原良平氏がジャンボに追い求めた理想は、コストという大きな壁のもとに、半年後にはもろくも崩れ始めている実情が伺えます。 話題を変えてバイオリンのお話し。 2011年12月25日付けの当欄にて『戦前の名古屋「鈴木バイオリン」の倒産からの危機を救ったのは“バイオリン”ではなく、実は間違いなく“ギター”だった。』と本邦初となる提言をお伝えしました。 斬新?な提言ながら、破産申請まで地に落ちた鈴木バイオリンの復活劇を支えたのは、じつは古賀政男氏により沸き起こったギター・ブームの便乗効果だけではない、もう一つの重要な要素・要因が語られることはない。 洋楽器産業研究の大家・大野木吉兵衛氏の研究論文を分かり易くかいつまんでみよう。 「(世界大恐慌以来の)不況の猛威により昭和八(1933)年七月に(鈴木バイオリンの)和議破産申請が許可されるや、約半年で会社債務を完済し、昭和九(1934)年四月には販売体制を革新、二年程で在庫を一掃しつつ新製品の販路を拡大した。」 「昭和十年(1935)六月には、社長下出義雄、専務鈴木梅雄(長男)の新体制が成立し、支援を仰いだ地元有力者等の出資者には、鈴木二三雄(五男)の義父で大手玩具卸商の岩田芳之助等がいる。」(「楽器産業における世襲経営の一原型(II)」大野木吉兵衛より一部引用) 昭和7(1932)年末、すでに債務不履行の破産状態にあった鈴木バイオリンながら、世界大恐慌以降の洋楽器産業界の状況が目に浮かぶ様である。 ギター製造界の父・中出阪蔵氏は、当時バイオリン製造の名工・宮本金八氏の内弟子として仕えていたが、宮本氏のもとから独立したのは1932(昭和7)年頃である。つまり、名工・宮本氏といえども内弟子として抱えられぬほど困窮の末の独立劇と見て良いだろう。 鈴木二三雄氏の義父・岩田芳之助氏は、自身が度々引用する「名古屋洋楽器卸商組合」の重鎮で、同氏の推薦を得た名古屋市市議会議員立候補者は、ことごとく当選するほど、実業界、政界にまで余力を振るった御仁の様である。 余談となるが、楽器産業界で「岩田」繋がりと言えば、名古屋界隈では戦後から現在に至るまで連綿と続いている点と線の構図が伺えます。 さて、有力資本家等のテコ入れで債務返済や販売体制の見直しは功を奏した様ですが、急にバイオリンが売れ始めるほど景気が良いわけではない。 そこで今回の本題になるが、破産申請後の復活劇のもう一つの要因は、新たなバイオリンの製造法導入とそれに伴う職工の削減だったのではないだろうか。 新たなバイオリン製造法とは「表甲、裏甲のプレス加工法」である。 それまでの鈴木バイオリンは、「習い型による切削特許による加工法」しかもたず、それとて量産に適した加工法ながら、プレス加工法による量産化に比べれば材料コストも時間も職工も要する。 そもそも「表甲、裏甲のプレス加工法」特許は、山下オルガン(山下洋楽器製作所)の山下勘三氏が申請・取得したもので、昭和八~九年頃に、その特許法を日本陶器に五万円で売ったそうである。 ここで大きな疑問が浮かぶのですが、日本陶器に買い取られた「表甲、裏甲のプレス加工法」特許が、何故、鈴木バイオリンの使用する工法と成り得たのだろうか? まず、当時の金額で五万円というのは額がデカ過ぎます。公務員初任給75円の時代、高く見積もっても五千円だが、五百円でも当時の鈴木バイオリンでは買い取れなかった事だろう。 つまり、山下勘三氏がバイオリン製造に見切りを付け、鈴木バイオリンに打診し成立しなかった特許商談を、同じ名古屋界隈の有力資本企業である日本陶器が引き受け、提供したという図式が見えてくる。 有力資本家の資金を得て日本陶器から特許法の提供を得たことで、結果として昭和十(1935)年以降より「表甲、裏甲のプレス加工法」による“センベイ・バイオリン”が席巻するのである。 (※「センベイ・バイオリン」とは山下勘三氏談からの引用です) そして、皮肉なことに腕の立つ職工は不要となるのである。昭和十(1935)年に鈴木バイオリンから独立した矢入兄弟(矢入儀市氏・矢入貞雄氏)は、中出阪蔵氏同様に新たな途を模索せざるを得なかったのであろう。 技術革新とは、いつの時代も同じ様な「光」と「影」を生み出すのである。 「影」を巧みに利用すれば、星野楽器店の様に、同・昭和十(1935)年より、引く手あまたのギターの自社生産が可能となるのである。 鈴木バイオリン破産申請後の復活劇には、大野木吉兵衛氏の僅かな見識以外に見る影もないのが現状ですが、自身の提言のみならず多分に検証・考証の余地がありそうですね。 少なくとも楽器業界に身を寄せ、活字で“禄(ろく)を食(は)む”側が向い合うべき過去の歴史であることに変わりはないが、自身が云々語るよりも、ぜひ地元の有志・愛好家の方々に、鈴木バイオリンの未だ語られぬ歴史を紐解いて頂きたいものである。 2013年6月9日(SUN) 雨にも負け 風にも負け 雪にも夏の暑さにも負け 丈夫なからだをもたぬゆえ 慾ばかりで 怒るばかりで いつも不遇の苛立ちを覚えている 毎日白米を頬張り 望むものを腹一杯食べ あらゆることを 時の感情に流されながら さほど見聞きもぜず分からぬゆえ 覚えることもなく 都会の洒落た街角の 大きな洋風の屋敷にいて 東に病気の子供あれど 行って看病することもなく 西に疲れた母あれど 行ってその稲の束を負うこともなく 南に死にそうな人あれど 行って慰めることもなく 北に喧嘩や訴訟があれど 一向に留めることもなく 日照りの時は涼に入り 寒さの夏は颯爽と歩き 凛とした才人と注目され 憧れ慕われる そういうものに わたしは なりたい 敢えて慣れないことに挑戦してみましたが、 意外ながら飾らぬ人間の内面に迫る詩の様でもある。 本音と建前のように、案外、裏を返せば元は同じ様な事でも、上記駄文が歴史に残る文学には程遠い様に、時に“伝えたいことをどう表現するか”で明暗が分かれる見本かも知れません。 かつて申し上げた様に、ネット社会とはデジタルな“記録型社会”で現実社会のアナログな“記憶型社会”とは異なるが故に、建前的文学表現などと申し上げるつもりも毛頭無いですが、浅学非才な自身には厄介な世界です。 三浦雄一郎氏が80歳にしてエベレスト登頂の偉業を成したが、彼はかつて実に興味深い事を話している。 彼は冒険家として山頂からスキーで滑降する無謀な挑戦をしていた時期がある。成功という記録の裏では失敗もしている。山頂からの滑降で、横転し滑落してく・・・。 本来なら、そのまま死に至る滑落ですが、幸い減速用パラシュートが小岩に引っかかり、滑落を止め命拾いする。この滑落の瞬間、三浦雄一郎氏は、不思議な覚醒をしていた。「オレの人生は夢だった・・・その夢も終わるのか・・・」 人間とは「忘れる動物」である。そういう脳の仕組みだからこそ、数十年経った過去も、あっと言う間だったと皆が振り返る。末期の瞬間は、現実ではなく夢だったと覚醒する不思議なメカニズムをもつ。 人間は考える脳を与えられたが、であるからこそ忘れる機能を与えられた。良くも悪くも人間は忘れる動物なのである。デジタルな“記録型社会”は、従来にない新たな扉を開くかも知れない。それでも人間はあっと言う間に人生を忘れていくのである。 そして、人生とは所詮は退屈しのぎなのか、そうでないのか・・・立川談志師匠、実に面白い問いかけです。 今年からは従来とは異なる新たな荒野を歩き始めています。成すべき事はすべてはっきりと見えていますので、時間をかけ熟成させるだけです。 ギターという楽器は、単純にエレキギターは電気製品、アコースティックギターは音響製品と言えるほど性格が異なりますが、向き合うほどに色々なものが見えてきます。 様々な要素を突き詰めると、自ずと導かれる姿・形が見えて来るものですが、不思議な事にアコースティックでは対象はマーティンではないんです。 しかし、アコースティック界は国内外問わずマーティンに追従している・・・少なからず自身の見据えるギター像とは、世界標準から少なからずズレている様です。 そのズレを確かめようと過去の製品群を精査する限り、自身と同じ姿・形を見据えていたであろう唯一のギター・クリエーターの存在を確認できます。しかし、製品は途絶えてかなり久しいです。 歴史的には、田原良平氏の「Jumbo(ジャンボ)」同様、あたかも淘汰された絶滅種となるのでしょうか。今日まで着目された製品も見当たらないという事は、恐らくは唯一の理解者、あるいは異端者なのかも知れません・・・。 近年は、当欄ないし自身が田原良平氏の口伝者ごときに思われているかも知れませんね。 少なからずそう誤解されている方々がいるとしても一向に構いませんが、時に誰かが新たな見識を問わねば伝わらないことがあるかも知れない・・・もしかすると、今日までそんな想いの積み重ねなのかも知れません。 田原良平氏こと「Jumbo(ジャンボ)」ほど、良質なヒントが詰まったギターはないだろう。 一例を挙げれば、ネックのヘッドがある。現状全く認知されていないが、ネックは最初の木取りの段階からネック&ヘッドの角度を考慮した上でネック材として木取り&成形されている。 この方法は決定的に歩留まりが悪くコストのかかる方法ですが、ヘッドが折れにくい事と併せ、成形後のネック部の変形が少ない、より安定したネックになるとされています。 奇しくもギブソン社の初期レス・ポール・エレキギターと全く同じ木取りをされている点では、ともにコストを惜しまず最良のギターを産み出そうとしていた異なる時代の匠の業をうかがい知ることが出来ます。 マーティンにもない木を知り尽くした巨匠の業が随所に散見されるにつけ、改めて田原良平というギター職人の見識の奥の深さを思い知らされます。 どんなに心眼を極めた優れた見識も、時にそれを言葉にしなければ伝わらない事もある・・・しかし、語るほどに所詮は素人向けのセールス・トークに過ぎないと看破していた坂下 拓氏の“モノで言わせる”志には、田原良平氏と相通じる達観されたギター職人のみが醸し出すサムライの美学の様なイディオムを感じます。 “立ち位置”が異なるがゆえに、せめて共感するモノノフでありたいと思いつつ・・・。 |
||||
![]() |
![]() |
![]() |
SEO | [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送 | ||