当サイトに関する事や、広く楽器・音楽に関わる事、身近な出来事などに対するつれづれなる想い事をしたためた「DESSIN(デッサン)のひとりごと」です。

●あとがきVOL.04
VOL.1
(2011年1月〜)
VOL.12(2007年10月〜)
VOL.11(2008年1月〜)
VOL.10(2007年1月〜)
VOL.09(2006年1月〜)
VOL.08(2005年7月〜)
VOL.07(2004年〜)
VOL.06(2003年12月総集編)
VOL.05(2003年10月〜)
VOL.03(2003年1月〜)
VOL.02(2002年9月〜)
VOL.01(2002年オープニング)

2003年9月28日(SUN
楽器商たる“モチは餅屋”である不文律を敢えておかしギター製造工場を所有した実に対照的な2社がある。今回はそんなモーリス楽器と黒澤ギター製作所を取り上げてみたいが、共に母体は1966年頃からHOTAKA(穂高)ブランドを製造していた長野楽器に始まっている。

さて、モリダイラ楽器の森平利男氏に関しては以前触れたこともあるように資質・天分に恵まれた楽器商。それゆえモチは餅屋であり製造業には手を出すなとされる楽器商たる戒めを自覚すればこその大英断であったそうな。長野楽器から分岐し芳野楽器が設立され、その5年後にはモーリス楽器製造と改称している。製造畑出身ではない楽器人ゆえか氏の製造スタッフに対する想いも大きく、早期からアメリカへのギター研修旅を通じて製造スタッフの底上げには余年がない。

長野楽器はと言えば、芳野楽器設立後、経営不振により事実上倒産。販売網をもつモリダイラ楽器が手を引き長野楽器の有能な製造スタッフの多くが芳野楽器に流れれば必然的結果と言えるだろう。幸い黒澤常三郎氏の資本テコ入れで黒澤ギター製作所松本工場となり再生した。

楽器商の森平氏に対して楽器製作者である黒澤氏からすれば自社製造工場の所有は、むしろ経営学上の選択にすぎなかった・・・とすれば、いささか話の筋道がたたないほど違和感がある。

氏は中学をでるやいなやバイオリン製作者の黒澤厳父よりバイオリン製作の手ほどきを受けた人物。のちにバイオリン製作者で高名な宮本金八氏のもと、中出阪蔵氏に弟子入りし20歳には独立し文京区小石川に黒澤ガットギター製作所を設立している。この修行期に出会ったギターだが、1960年にはホセ・ラミレスの下へ1年間ギター留学も果たしている。

ところが先見の明ある製造畑一筋の人物ゆえか、このホセ・ラミレスのギター留学体験こそがその後の人生を変えてしまう。製作者としての才能の無さを痛感してしまった氏は、スッパリと楽器経営というビジネス業に方向転換してしまった・・・らしい。これとて森平氏と勝るとも劣らぬ大英断ながら、森平氏とは面白いほど逆のベクトルを描いている。

森平氏はブランドを育てる意義を熟知していた。またブラントとともにギター需要を活性化する最良の術として、ビートルズが巻き起こしたエレキギター・ブームと同じように牽引力となるミュージシャンの存在の不可欠さを熟知していれば、自社ブランドの明暗を託すべくアリスというグループに対しあらゆる宣伝の場を提供し莫大な費用を投入してきた。モーリス・ブランド確立の立て役者がアリスなら、彼等をスターダムに押し上げた影の役者が森平氏というところだろうか。

他方、長野楽器あらため黒澤ギター製作所の復興指導にはかなりの労を要したことだろうがフォーク・ブームも幸いしてか徐々に立ち直りをみせ、後に製造工場を一新させ、ロゼッタ加工専門工場を傘下に納めつつも数々のブランドを排出してきた。

Fuji(フジ)Event(イベント)El Martin(エル・マーティン)Jullian(ジュリアン)Grand Canyon(グランドキャニオン)Splendor(スプレンダー)MILES2000(マイルス2000)・・・と定着をみせることはなく、他社ブランドに見られる社名を託すものもなく曖昧な?ブランド名に終止している。正確な資料こそないが1979年には製造部門たる同工場は倒産しているハズである。

かくあるごとく対照的とも思える2社を通じて『ブランドを大切にする企業は成長する企業である』という言葉を思い出す。ブランドを育てることはおのずと製造者側を育てなければ為し得ない、つまりギター製作に携わる人間の成長なくしてブランドの成長は為し得ないという必然性をあらためて感じます。

ブランドに込める想いとは、そのブランドに携わる個々の人間に対する想いでもあると言えるのかも・・・。

2003年9月21日(SUN
少年野球に参加している息子が『ドカベン』の単行本を買いにブックオフに行きたいという。ちょっと前までは『マツイくん』とか『キヨハラくん』を読みながら馬鹿笑いしていたハズだが・・・ささやかな進歩?と思いつつもお使いがてら連れだって出かけたブックオフで、書棚にたたずむ息子のちょうど目の前に懐かしい名作を見つけた。おかげで思わぬ出費が増えてしまった。

その出会いは中学頃だと思うが、既に単行本だったのでコミック連載はいつ頃のものかは知らない。著者作品に関してはひたすら怖い想い出しかないのですが、とにかく意外な?ツボにはまってしまったのが、楳図かずお・著『アゲイン』。以来ウン十年、日本コミック史に輝く傑作との想いを密かに封印しつつも・・・改めて「テーマ・構成・描画力」三拍子そろって文句無しッ!

さて、今週のお題は「もうひとつのパテント?」というお話。

工業権としてのパテントの話は以前にも触れました。一定期間の権益が保護・保証されるもの。特許であれば公告から15年。独占的に儲けた?後は公共の財産とすべく誰かれもがその特許を使用でき、他にも期限を有するものとして意匠・登録商標・著作権などなど・・・。

ところがアメリカにおける登録商標というのがクセ者。そのクセ者ゆえクローズアップされ日本ギター産業界を巻き込む大問題と化したのが、ギブソンの経営権をもつ米ノーリン社がギブソン・コピー製品対策としてとった手法。

ヘッドストック(ペグヘッド)の形状、ヘッド上のデザイン図形、トラスロッド・カバー等の一連を登録商標として申請・受理されるやいなや、これをコピー潰しのノロシ、日本流でいえば水戸黄門さまの印籠のごとく反撃にでた。

日本でいうところの登録商標とは、その名のように商い上の目印としてのシンボリックな名称や付随した図形などを保護するもので、更新次第で永久使用可能。対してアメリカの登録商標では、トラスロッド・カバーやヘッドストックの形状までもが登録申請可能というのがミソ。日本ではヘッドストック形状など工業製品の一部として意匠扱い・10年間保護されるが、アメリカにおいてはあたかも無期限パテントのごとく登録可能だ。

あえてアメリカ側の解釈をすれば、ヘッドストックの形状はギター製作家自身のブランド、商い上のシンボリックな独自性あるデザイン形状を有した目印・・・ってなところか。

さて、これ幸いとばかり便乗したのが一方の雄・フェンダーで、クローシャン・ヘッドと呼ばれるストラト、テレキャスター2種のシュタウファー流形状を登録商標申請した。寝耳に水のノーリン社の戦法に対して、フェンダー側の申請の事実をつかんだ日本ギター産業界は大枚を投じて異議申し立ての対抗措置で応戦・・・その3年後、あえなく申請受理されてしまった。

そしてこの1年後にはフェンダー・ジャパンが設立され、アメリカ本土ではクローシャン・ヘッド類似品の関税差し止め、日本国内ではフェンダー・ギター類似品のダブル掃討劇が始まった・・・。

ところでフェンダー・ギターに関する専門書籍も多数出版され専門たる内容としてフェンダー・パテントの詳細も明記されてはいるが、フェンダー・パテントの歴史には決して記されることのない「もうひとつのパテント」たる上記の事実を取り上げている書籍は極めて少ないようです。

2003年9月14日(SUN
お月様がキレイだなナ・・・聴けば、真円の満月夜だそうで翌11日は十五夜だった。はたして「グランド・ゼロ」に集う人々に中秋の名月はどのように映るだろうか・・・。

さて、かのブッシュ氏が“これは戦争である”と公言した際、“これじゃパールハーバーと同じ作戦じゃないか”とつぶやかざるを得なかったが、戦争の相手はいつの間にかイラク&フセインにすり替わってしまった。

「アメリカがクシャミをすれば日本は風邪をひく」が、「アラブがクシャミをすればアメリカが風邪をひく」経済情勢で、結局パンドラの箱の中身は「石油」だとすれば「小をもって大を制す」国益方程式はちっとも変わっちゃいない・・・。

さてさて、先週に引き続き戦後動乱期の楽器物品税がいかにすさまじかったかは、消費税率5%、先行き7%だ10%だと恐々としているご時世からは、先の物品税率100%など到底想像しがたいほどですが、終戦前後の1944年2月から1946年8月に至るまでは実に120%の税率。実際は奢侈(しゃし)税としての物品税、いうなれば贅沢品をランク別に分けた中でも楽器というものは贅沢極まりない象徴だったのですネ。(※同戦時下では当然ながら楽器製造禁止令もでていた。)

戦後動乱期たるGHQ占領下の指揮のもと、早々に楽器を使用した音楽教育指導が検討された。その内容たるや小学校でハーモニカ・リズム楽器、中学でブラスバンド、高校でオーケストラと言うから、全てが灰に帰した後の再生劇はまるで夢物語のようだ。

平和産業としての楽器製造に乗り出すまでは良かったが、いかんせん奢侈税たる納税条件は翌月10日までに申告・同時納税義務、おまけに滞納すれば即、日歩6銭の延滞利子というから、GHQが提唱する平和産業を担う楽器教育指導の出発点は夢物語ならぬ残酷物語だろうか。

それでも税率100%時代(※この間、実は80%、50%等の税率を記す資料もあり検証が必要そうデス)に多くの楽器産業が設立された背景には、戦争という抑圧・弾圧された社会から解き放たれ自由を渇望する大衆の大きなムーブメントがある。その活力源となり自由・平等・平和を掲げるアメリカ民主主義の相乗効果が、とてつもない運動エネルギーと化し、歌・音楽・楽器等に象徴される娯楽平和産業に注入され、楽器なら何でもかたっぱしから売れて無くなるほどの未曾有の大流行を生み出し、その象徴たるが林楽器のグローリア・ギター・・・ってなところだろうか。

たぶん戦中・戦後を知らない自身などには、1973年のオイル・ショックによるトイレット・ペーパー騒動あたりが案外シックリくるイメージ像のような気がしないでもない。同じ流行品でも山形県鶴岡で製造されていた古賀ギターなどは希に拝見することもあるのですが、いかんせん月産6,000本もの生産量を誇りギター・ブームの原動力ともなったグローリア・ギターは何故か一度もお目にかかったことがない・・・何とも不思議なギターでござりまする。

さて今週のシメはさにあらず、GHQのわが国に託した夢物語をいま一度・・・と思えるほど、昨今の情操教育の中には楽器教育の要素がなりを潜めているように感じます。お稽古ごとの楽器教育ではなく、情操教育を推進するものとしてGHQの夢物語を再び教育の現場に引き戻して欲しいと切に願うほど楽器に親しみ音楽に戯れる子供達の楽の音が余りにも乏しいと感じるのは、はたして自身だけだろうか・・・。

伸びゆく子供たちが楽器に親しみ音楽に戯れ、そして子供達の奏でる楽の音に包まれるようなたおやかな社会でありたいと願うのは、いささか古い人間でございましょうか・・・。

2003年9月7日(SUN
日本でエレキギターと言えば、テスコだグヤトーンだともっぱら語り継がれますが、終戦まもない平和産業はなやかし頃は実に優れた逸材が多方面にいらした様です。

当時まだ電気ギターと呼ばれていた半世紀も前の時代の話ですが、福島県須賀川に「関 鉄夫」氏という素晴らしい逸材がいて、電気ギターに取り組んでいた数少ない一人らしい。電気スティール(ハワイアン)の時代からすれば先見性もさることながら、かなりの楽器マニアであったと伝えられている。

テスコやグヤトーンの創設者どころか当時のギター産業界には見られない貴重な嗜好性ゆえの逸材とおぼしきだけに「関 鉄夫」氏なる人物への好奇心がほのかにくすぶっています。

ぼちぼち工場で生産もされ東京テイハツでも販売されていたそうですが、いつの間にか潰れてしまったという。恐らく楽器物品税を知らなかったせいか、当時は後から効いてくるボティ・ブローさながらの物品税に潰れたメーカーも少なくないという。

ではどれほどスゴかったかと言うと、1946年9月以降の楽器物品税は100%。100%です!これが1950年度末まで4年強もの間続いた訳だから、税に対し相応の対策を施さないと、月産6,000本もの驚異的生産量を誇り一世を風靡したグローリア・ギターの林楽器のごとく悲運の結末を迎える事になる訳だ。(※詳細はヤマキ楽器の社歴欄を参照下さい。)

テスコが経営不振で河合楽器に吸収された際、いい買い物をしたと業界内では囁かれたそうですが、実際ふたを開けてみれば、とんでもないオマケまで付いてきた・・・それが放置され続けた物品税と言われ、松田童龍氏にいっぱい食わされた河合楽器の思わぬ落とし穴だった・・・らしい。

ヤマキを通じて多種多様な情報を眺めながら今日のギター産業界の衰退を辿ってゆくと、冒頭の「関 鉄夫」氏とも極めて関連するある一つの根本原因が見え隠れする。それは企業トップに例えばニッサンのカルロス・ゴーン氏ごとき「車の虫」ならぬ「ギターの虫」が存在していたら・・・と言うのは、やはり独りよがりの勝手な思惑だろうか・・・。

そう言えば、日本にはこんな素敵な虫がおりましたがおりましたネ、手塚治虫。

2003年8月31日(SUN
本日は8月末日にして最後の日曜日とあれば、駆け込み的に夏休みの宿題・課題の対応に追われているご父兄方(何故、お子様と書かないかご推察あれ)もさぞや多いことでしょうネ。当家も工作課題に親子共同製作で取り組んだ「野球盤」の追い込みには悩まされました。

『消える魔球がいいョ・・・』(そりゃぁ、出来るに越したことないケドさ。)

『球はパチンコ玉をバネか何かで投げるみたいにしてサ・・・』(そりゃぁ、出来るに越したことないケドさ。)

二人でさんざん考えた揚げ句、どちらもパス!そりゃぁ、出来るに越したことないケド、考えるほどに悩みのタネでした。ともあれ妥協の産物とはいえ、案外面白いモノが出来たばかりか提出前に子供達と作品を囲んで楽しく遊ぶことも出来たのは、気苦労がちょっぴり癒される瞬間でもありました・・・。

ところで前回の更新時には、それまでにない新たな内容が盛り込まれていたことにお気づきになられましたでしょうか?サンプル音源付きのヤマキ・ギター情報です。当サイトを含めた既存の楽器関連サイトに新たなスタイルを提案するものとして大変意義深い試みであると感じました。

新たな情報スタイルとしてより多くの方々が試み、そして関連情報として流通してゆけば、おのずとサウンド・ニュアンスを言葉で語る限界あるいは曖昧さ、認識の誤解を打破してくれる画期的な情報として開花してゆくのではないでしょうか?

もちろん音源のあり方には様々な観点から問題がないわけでもない。しかしそうした諸問題も情報として流通し、育ち成長していく過程で少しずつ解決してゆくであろうことであれば、言葉の壁を越える新たな認識を共有できる情報のあり方としての必然性さえ感じさせてくれます。

当サイトはといえば・・・情報精査にかかりっきりで目下対応不能です。膨大な情報量の中から精査・整理しつつもヤマキ関連情報を消化するだけで個人的許容量の限界点近くを右往左往しているのが現状で・・・おかげでと言いますか、この半年間他のネット情報に触れる機会も全くない!・・・ほどヤバイ状況ッス。

さて、思い立ってしばらくぶりに立ち寄った書店で思いがけない楽器関連記事を拝見しました。思いがけない、と言うよりも、やっぱりそうなのか、と自身の想いを確信させる内容でした。

・・・僅かひと月ほど前、自身にとっては衝撃的な記事を目にしていた。その衝撃は様々な問いを投げかけ想いをつのらせるばかりか、今年の総集編として年末を飾るコメントにでも・・・との自身の密かな想いにまるで呼応するかのように、更にその確信のダメ押しをしてくれたGM誌9月号のコラム記事には改めて複雑な想いが交差する。

偶然のイタズラにしては・・・。

2003年8月24日(SUN
寒い冷夏の盆休みでしたが・・・いざ盆休みも過ぎると何故か年末に一気に近づいたような・・・今年残された月日へ想いを馳せる。

当コラムもあと20話にも満たずして本年を締めくくることになるが、既に10話相当の様々な想いがあれば、記せる新たな想いは残る10話にも満たない。

さて・・・6月付けの当コラムで、ヤフオクの異変を取り上げましたが、最近さらに面白いことが判明しました。

クッキーなど特に意識しない方々には、画面上何の変化もない(バックグラウンドで知らずに受け取っている)ので判らないことかも知れませんが、今年のある時期を境にヤフオクにアクセルするばかりかオークション品目を移動するたびにクッキーを差し出す様になったのをご存じの方も少なくないかも知れません。

ところがこのクッキー、ヤフオク登録メンバーを対象にせっせと差し出してる・・・つまりクッキー情報を持たない(不特定多数の)ゲストに対してはクッキーを発行しないんですネ。

これって、つまり・・・懸念すべきことを敢えて言葉には出しませんが、一考すべき内容が含まれているのかも・・・ネ。

(※対応をご検討の向きには、ブラウザの環境設定等のクッキー設定項目中のヤフオク・クッキーを削除後、クッキーのアラート表示に変更すれば自動的にゲスト・アクセスになり、その際(会員かゲストを選別する)最初のクッキーを拒否すれば以降クッキーを発行しない・・・様です。くれぐれも上記環境設定等の変更は、自己責任の判断のもと対応下さい。)

2003年8月17日(SUN
70年代に演じた日本アコースティック産業の衰退の理由の一つに、実はモーリス、ヤマハが一枚かんでいるのはご存じでしょうか?案外知られていない事かも知れない。

正確にはモーリス・グループの一員でもある飯田楽器のピアレス・コリア工場とヤマハの台湾・高雄山葉工場であり、この2社が大黒柱となり韓国、台湾においてギター製造を飛躍的に向上させたのは言うまでもない。同時に日本ギター産業の(特にアメリカ)輸出を猛追し、結果1974年には輸出本数においては日本を追い抜いてしまった。台湾、韓国ではこの2社の後に続けと活気づいた企業も少なくない。

この根本原因は、そもそも当時のアメリカ関税における後進国への特恵問題に端を発しているのですが、遅かれ早かれそうした時期がやってきたことに違いはないが、先の2社が予想以上にその時期を加速させたことだけは間違いないでしょう。実状を知り得ない自身にとっては、単に数字の上での妄想といわれれば返す言葉もありませんが。

しかしながら昨今の中国を見ていると、はるか30余年も前の飯田楽器、ヤマハの姿が脳裏をよぎるのは、当時の実状を知り得る有識者であればなおさらではないのだろうか・・・。

2003年8月10日(SUN
以前ひょんな事から解ったことですが・・・ヤマハの「Lシリーズ」の「L」は「Luxury」の頭文字だそうで、確たる情報サイトゆえに間違いないことでしょうが、個人的には「Long scale」の「L」だとず〜〜ッと思っていました。(マジっす!)

きっと自分だけじゃないハズ!との変な自信も・・・「Long scale」だと思っていた方、何処かにいませんか???

ヤマハがそれまでフラッグシップ・モデルとしてリリースしたFG-1500やFG-2000の後継機種としてリリースされたものがL-31であったのは今更語るまでもない。しかし何故FG-3000ではなくL-31なのだろうか?31っていうのもミョ〜に気になるよネ。本来、FG-3000の予定であった様な記事も目にした記憶がある。

それはさておき、ヤマハがFG-1500やFG-2000から学んだことは、スケールの重要性であることはほぼ間違いないのではないだろうか。世界のサウンドとして競合するためには避けられない問題であると気づいたからこそ、スケールをメインに(その他も含め)改良されリリースされた製品こそがL-31だと個人的には分析しています。

同時期の他社製品と比較しても、価格以外ひき立てて「Luxury」と言えるほどの要素もないだけに何ももって「Luxury」なのか極めて曖昧ながら、「Long scale」と言われれば、なるほど!と納得出来てしまう実に不思議な「Lシリーズ」・・・。

2003年8月3日(SUN
日本のフォーク・ブームの隆盛とともに急成長するそんなヤマキに訪れた最初の低迷期は、他社とはちょっと性格を異にしていたかも知れない。

ヤマキを細かく分類すると、'60年代の第1期、'70年代初頭からの第2期。そして'73年頃から'74年の2年間に当たる第3期がちょうどその低迷期に当たると思われます。

この時期はフォーク・ブームの絶頂期を物語るかのように、それまでに見られなかった中級〜高級指向の製品を各社リリースし始めた時期でもある。さらに同時期のエレキと嗜好性が似ていて、言うなれば圧倒的なマーティンやギブソンのコピー(ギルド、ギャラガーのコピー当たりも出始めた)がアコースティック・マーケットの主流を成していた時期で、アメリカナイズされた製品こそが流行だったようです。

ヤマキ&ダイオンは、他社にはない独自色を打ち出しつつ躍進してきた。が、いつしか多種多様な製品で満たされはじめ、アメリカナイズされた丁の良い製品へと移行する中、他社製品とさほど代わり映えのない製品に見えるほど急速に成熟するアコースティック・マーケットにおいて、ヤマキは最初の曲がり角を迎えていたようです。

マーティンやギブソンに「右習え」一辺倒の時期、ヤマキ&ダイオンの決断も「右習え」だった。同時期リリースされた「Hシリーズ」のハミングバード・モデルや「Gシリーズ」のギャラガー・モデル等は、まさしく当時のヤマキ&ダイオンの苦渋の選択だったと言えるでしょう。

ところが、この決断こそがそれまでヤマキが築いてきた「ヤマキらしさ」を見失わせ、さらにはマーケットを失う結果を招いたようです。いうなれば後発組が丁の良いコピー製品でマーケットを獲得する中、先発組のヤマキは同じ手法でマーケットを失い始めていくという皮肉・・・。

この試練をどう乗り切ったのか・・・実はこれこそがヤマキ&ダイオンを語る上での真骨頂ではないかと密かに思っております・・・。

2003年7月27日(SUN
当サイト以外でもヤマキ関連情報に触れる機会は少なくないと思いますが、そんな中で「ヤマキはかつて人気のあったメーカー・・・云々」等のコメントを折に触れ目にすることってありませんか?

本当かいナ?(かっての自身の様に)Yamahaみたいな「Yamaki」なんてメーカーやブランドさえ知らない方だっているだろうし、大多数のアコースティック・ファン層の中でもモーリスやヤマハならいざ知らず誇大広告めいた怪情報の域を出ないものと眉をひそめている方々も少なくないと思います。

ところがヤマキ情報を多方面から精査してみると、案外遠からずの発言とも言えそうなんです・・・特に'69年のマーケット調査では、ダイオンの地元・関西はいうに及ばず全国的に好評を博したメーカー、ブランドとしてヤマキ・フォークギターが取り上げられ、こうした勢いは'72年頃まで続いていた様です。

まさに日本のフォーク・ブームの隆盛とともに急成長したという点ではモーリスやヤマハと似ていますが、ひょっとして当時の実状を知りえる筋金入りのフォーク野郎だけが語れるコメントなんじゃないかナ・・・などと、フォーク音痴野郎の管理者としてはチョッピリ思える様になりました。

2003年7月20日(SUN
ドイツ式のダボを応用したジョイント工法が当時どれだけ画期的であったかは、恐らく日本ギター産業界が異口同音に賛辞するであろう革命的工法ながら、個人的に強く興味を惹かれたのは非対称Xブレーシングでした。

自身の所有する2台のヤマキ・ギターがこの非対称Xブレーシングであったこともあって、当初ヤマキ・ギターは全て非対称Xブレーシング構造なのだろうと思っていました。(※仕様構造は「カルトQ&A」No.16で解りやすく図解してマス。)

正確な導入時期は不明ですが、自身の'72年製のものには既に採用されていることからも同時期に導入された仕様だと思います。ただし、アコースティックの仕様・構造を知り尽くしている訳ではないのでオリジナルかどうか明言できませんが、少なくとも国産アコースティックにおいては初モノであったと思います。

こうした発想が独自に成されたとするならば、うらやむべく早熟の資質という点では田原良平氏と比肩されるかもネ。こうした点を含めて常々機会があれば寺平一幸氏やヤマキ楽器のスタッフの方々とじっくり話をしてみたいものだと密かに思いながらも信州・諏訪へはいまだ近くて遠い道のり・・・。

むしろどこぞのアコースティック専門雑誌等がヤマキ楽器の正式取材でもしてくれたほうが遙かに有意義な内容となることだけは間違いないのでしょうけどネ。

2003年7月13日(SUN
全音ギター製作所・・・いわずと知れたヤマキ楽器の前身に値するであろうギター製造メーカー。当時は、他社に先駆け工場の近代化にいち早く取り組んだ最先端工場としても有名のようですが、その中心的存在こそが同社の長たる所長・寺平一幸氏のその才覚・手腕であったことは容易に想像がつく。

機械工作技術にたけた寺平氏の実績の一つに、ドイツ式のダボを応用したネックのボディ・ジョイント工法があるのは当サイト「Q&A」でも記載していますが、このダボ式ジョイント工法を採用していた製造メーカーは案外多いようです。ヤマキ楽器は諏訪地方いわゆる長野県下の楽器メーカーですが、長野県下はいうに及ばず、かの名古屋の楽器産業地域にまで採用されるほどであったようです。

ダボ式ジョイント工法の是非はさておき、この工法の優れている点は「量産に適した」工法であるに尽きる。発想もすごいが、それ以上にすごいのは理にかなっている点で、改めてその着想には驚かされる。

A)センターを正しく通す
B)弦高を正しく維持する為のジョイント角度を正確に保つ
C)十分な強度保つ

これら3要素を正確に、より強く、より早く接合する為に考案されたものながら、量産に適した工法であれば日本特有のマス・プロダクトにこだわる生産体質には打ってつけの工法となったのは過去の歴史が証明してくれています。(※補足:それまで手工性の高い手間暇のかかるネック・ジョイントを初めて機械化&量産化させてしまったという点で極めて画期的であった。)

近頃はネックを接着固定しないボルトジョイント方式を採用するメーカーも見受けられるだけに、案外再考すべきヒントが隠されているのが「ダボ式ジョイント工法」なのではないだろうか・・・。

2003年7月6日(SUN
巨大組織ヤマハ・・・しかし、本当の意味でこの巨大帝国ヤマハの存在・影響力を実感されてきた方はどれだけいることだろう?

ヤマハが「フォークギター」と銘したカテゴリーのギター製造を始めた頃、わが国には4大製造メーカーが君臨していた。日本楽器(ヤマハ)、日本管楽器、天竜楽器、河合楽器・・・その4大製造メーカー中、河合楽器を除きヤマハ傘下のメーカーであれば事実上ヤマハの寡占状態。日管をの除きいずれもピアノ製造で築き上げた巨大組織。

さらにヤマハは普及網構築のため「特約店」制度を設け、ヤマハの看板を掲げさせる「プチ・のれん分け」制度で全国津々浦々にヤマハ販売網を築き上げていた。当時としてみれば、ヤマハという看板に勝る信用はなかったであろうだけに楽器商としてみればノドから欲しがる看板だった・・・に違いない。

こうした完璧なまでの販売網をもつヤマハがフォークギターの製造・販売を始めれば、全国津々浦々の販売網である特約店に商品が一斉に並ぶ。1973年といえば各社一斉に高級手工品を打ち出し始めた年であり、対米輸出はやや後退したものの国内市場はウナギ登りで活況を呈し、さらに一部の地域ではガット・ギターが2割に対しフォーク&ウェスタンが8割という販売実績を上げるほどフォーク・ブームのピークを迎えていた。

この時期のヤマハは、台湾の高雄山葉(対輸出品として年間約20万本生産)を含め年間40万本ものギターを製造していたそうです。国内市場にその半数が供給されていたことを考えると、いったい国内シェアは何%あったのだろうか?輸出ならいざ知らず、少なくとも月産2万本ものギターを国内販売可能なメーカーなどヤマハをおいて他社には不可能なほど遠い数字だろう。

某資料に基づく国内生産・出荷数は年間81万6,398台。(参考程度で実数はそれ以上)ヤマハのブランド・イメージからすれば少なくとも3割強と思いきや、数字の上から言えば予想以上のシェアではない。しかし、ヤマハの真の底力は、実数以上に上質のブランド・イメージ(ネーム・バリュー)を確立している点にある。故に業界がたえず注目せざるを得ないほどの存在とも言えるのだろう。

昨年4月14日付のあとがきで「ヤマハFG-1500、FG-2000といったフラッグシップ・モデルでの3Pバックのカーリーメイプルは、音響的というよりむしろ意匠(デザイン)的に目新しさを優先させたのではないか」と私的見解を述べさせて頂きました。確たる推論的発言ながら反論もあることでしょう。

されど・・・更に付け加えさせていただくなら、実はこれこそがフォークギター産業界に起こしたヤマハの波紋なのである・・・と申し加えておきたい。おそらくは我が国産ギター産業史を検証する上でも見逃せない視点となるに違いないと思っておりマスが、さて?


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