当サイトに関する事や、広く楽器・音楽に関わる事、身近な出来事などに対するつれづれなる想い事をしたためた「DESSIN(デッサン)のひとりごと」です。

●あとがきVOL.08
VOL.1
(2011年1月〜)
VOL.12(2010年10月〜)
VOL.11(2008年1月〜)
VOL.10(2007年1月〜)
VOL.09(2006年1月〜)
VOL.07(2004年&2005年〜)
VOL.06(2003年12月総集編)
VOL.05(2003年10月〜)
VOL.04(2003年7月〜)
VOL.03(2003年1月〜)
VOL.02(2002年9月〜)
VOL.01(2002年オープニング)

2005年12月25日(SUN
なにかと新しい未来を想い描くばかりの空想&妄想検定2級たる未来志向派ゆえ過去を振り返ることもない貧しい人生どしたッ。(汗)

キッカケは何であれ、様々な「温故知新」たる想いを胸に来年はワクワク・ドキドキを形に変えるスタートとして、お気楽カメ太郎に残された余力をもってオラがタネ蒔きの一歩から始めてみたいものです。

さて、今年最後の当欄は聖なる今宵にふさわしい「懺悔」で締めくくりませう・・・。

1968年頃がフォーク・ブームの幕開けとすれば、実質1970年代が日本のアコースティック・ギター史上、華やかなりし10年・製造の黄金期と言えるだろう。

自身の経験則はなにかとマユツバながら、確信出来得た類い希なる2つの資質。この真の検証なくして、我々の真のアコースティック・ギター史は、おそらく何も始まらないだろう。

我々がこの1970年代を振り返るとき、表面的な事象を精査しても本質は何も見えてこない。本質をまさぐる目と感を養えば、きらびやかな川面の中に泳ぐ魚の姿が必ずや見えてくるはずだ。

やがて本質に目覚めたどり着く時、当時のフォーク・ブームが犯した罪業の大きさがいかなるものか、その罪深き愚かさに気ずくやも知れない。

懐かしき黄金時代も、本質への探求の始まりは同時に我々自身の犯した過去の愚かしい罪業への長い長い懺悔の旅路となるだろう。また、この罪業を受け止めることなくして、我々の真のアコースティック・ギター史は、おそらく何も始まらないだろう・・・ア〜メン。

2005年12月18日(SUN
16日付で函館の方より貴重な問い合わせ情報が寄せられ、国産アコースティック史の側面をうかがう意味でも有意義ゆえ本日のお題とあいなり候。

「一時入手した1971年製造の国産とおぼしき合板アコースティック・ギターには、ヤマキが最初に導入されたとするボディ内からのトラスロッド調整法が既にあり、ヘッドには「CBS MASTERWORKS」というブランド名と、ボディ内ラベルには「ROSE」と記されていた」云々。

エレキ・ギター界から見ればどうという事はないボディ側ネック・エンドでのトラスロッド調整法ですが、ことアコースティックとなると、相応の調整法による製品が1973年頃のヤマキ製品を皮切りに、以降国産メーカーよりリリースされ始めた事は当時の歴史的な流れ。

同時期の製品情報には「ヤマキによる新たな(トラスロッド)調整法」と記載説明され、一度だけの機会ながらヤマキ楽器創業者・寺平一幸氏より「ヤマキが最初であると思います」との回答を得るに至り確信的事実と化していました。

ROSEラベル。これは春日楽器の輸出向け相当と思われ、1960年代後半〜1970年代のアメリカ輸出向けブランド製品に見受けられる。興味深い点は、ROSEラベルよりも「CBS MASTERWORKS」の「CBS」。

感の鋭い方は、もう既に先読みされただろう。そう、CBSフェンダーの存在です。

1970年頃を境に信州を中心にアメリカの生ギターの製造委託が相次いだ。関係構図は省略するが、マーティン、ギルド、フェンダー、エピフォンなどなど蒼々たるアメリカのブランド、サブ・ブランドが日本で製造されアメリカに輸出されていた。

注目点はフェンダー社とモリダイラ楽器の関係で、当時フェンダーの生ギターをモーリスがOEM製造している。自身は拝見した機会がないが、フェンダー・エレキ・ギターのネック同様のトラスロッド調整法であったと思われるは点で今回の「CBS MASTERWORKS」と同じ仕様かも知れない。

ボディ内からのトラスロッド調整法という点では、フェンダー社の生ギターをOEM製造していたモリダイラ、あるいは今件のカスガに一日の長があると思われるが、果たして同じメカニズムなのだろうか?

面白い史実がある。バカスカとエレキ・ギターをアメリカに輸出しまくっていた1960年代、フェンダー社からのネック・パテントのクレームとともに「諏訪事件」と化し、当時の訴訟先たる全音(?)を中心とした日本のギター・メーカー群は青ざめた。

恐らくは、当時の全音の所長・寺平一幸氏(後のヤマキ楽器創業者)を中心に協議検討され、その後の対応策として開発されたのが、全音やヤマキ、マツモク等々の信州を中心とした製造メーカーの仕様に見受けられる「REINFORCED NECK」ではないだろうか。

モリダイラやカスガが請け負っていたであろう製造法、ネック・パテントたるフェンダー流トラスロッド調整法を、かつての当事者たる寺平氏が導入するだろうか?むしろパテントと抵触しない裏打ちがあればこそ、ヤマキ方式が以降日本に根付いたんじゃないかしら。

国産初のヤマキ流とされるトラスロッド調整法も、フェンダーの亜流とみるかオリジナルとみるか・・・自身はというと、その前に「CBS MASTERWORKS」なるを拝見する機会に恵まれたいッス。

2005年12月11日(SUN
飽きもせず書き綴ってきた当欄「あとがき」ですが、ひそかな目的があればこそ続いてきた様にも思います。

自身にとって当欄は、ある種「畑」の様なもの。時に「変わり種」を蒔きつつ、芽吹くのか根も付けずに枯れてしまうのかを問う「実験場」みたいなもので、オラが村の種蒔く農夫よろしく風変わりな種を蒔き問い続けて来たようにも思いますが、何分マイナー指向なサイトなので案外そんなことはどうでもいいのかもネ。

もしやあのネタつながり?なんて思える様な密かな出会いを楽しみにしつつも、今後は自身のための種も蒔いてみたいものです。

2005年12月4日(SUN
ご記憶にある方も少ないかもしれないが、かつて富士山での落石が死傷者とともに大惨事を招いたことがある。

最初の1つの落石は、自然発生なのか人為的なのか不明ながら、たった1つの運動エネルギーが徐々に他の落石を生み、最後には巨大なエネルギー群と化し樹木をなぎ倒し人命をも左右する結果を招く。

これはある種、宗教というものの真理を物語る姿かも知れないし、人間社会の中には似たような事例は多々ある。同じ様に「情報」とは時に武器にも力(エネルギー)にもなるゆえ『ヤマキ解体新書』を開設するに際し「情報」をどう扱うべきかを自問自答しておりました。

掲示板(BBS)システムは確かに不特定多数に便利な情報表現の場かも知れないが、その情報に潜む「意志」次第で他意を含む格好な情報発信の場にもなる。

昨今のITの利便性は同時に情報を操作する側にも好都合であることは、すでに社会問題として一般市民に警鐘なりやまぬ状態であることを理解すれば尚更だろうか。

無知なるがゆえに自身が非フォーキィ世代として既存の情報や特定のミュージシャンに影響されることない中立的立場であるのは、情報を発信する側としてのスタンスを作りやすかったかも。

言質に無責任な大蛇やツワモノどもをよそに客観的考証らしきを模索する上での選択は、既存のサイト運営たるダイナミズムからはそれざるえ得ないし、情報の流動性がもたらす公共的作用・反作用を含め当サイトのノンビリした観は否めないだろうネ。

お気楽カメ太郎の逆説的選択は、かの歌のごとく・・・どっこま〜でも〜ゆこお〜〜ッ。道は〜きびしくとも〜〜ッ。口ぶ〜えを吹・き・な〜が〜らッ、歩い〜てゆ〜こ〜お〜〜ッ・・・ZZ...ZZZ。

2005年11月27日(SUN
ヤマハの歴史をさぐっていくと、創始者の山葉寅楠と河合喜三郎とが試作品第一号のオルガンを天秤棒でかついで天下の剣・箱根の山道を越え、250kmもの道のりを東京までかついだ・・・とある。

創業に絡んだ美談としてレリーフまで作られているが、学者・研究家たちの多角的考証によれば、単なる作り話として認知されつつある。

歴史的美談も時に歪曲され案外たいした事ではない事実・誤解とはありがちな話だが、興味関心のある方々は古きを尋ねてみるのもよい・・・新しき(事実)を知るキッカケになるかも知れない。

さて、今回の自身の視点は別にありんす。

オルガンとバイオリンは明治維新後の国家教育としての「唱歌」教育には欠かせぬハードウェアだ。この未知の2大ハードウェアの国産化が急務の折、山葉寅楠翁や鈴木政吉翁のみならず優れた技術力をもつ文明派がいた。

気になるのは文部省の音楽取調掛の創立者にして唱歌教育の立役者・伊澤修二の存在で、洋楽器製造ほどない愛知の二名にお墨付きの国益ルートたる白井練一(共益商社・東京)や三木佐助(開成館・大阪)をとりもったのが、その後の栄華の始まりだ。

おそらくは伊澤修二の「政治的」判断と踏むが、必然的土壌・バックグラウンド、あるいはキー・ワードがいまいち良く見えてこないだけに妙に気になる・・・いずれ古きを尋ねてみたい。

2005年11月20日(SUN
モーリスに触れたついでの変わりダネひとつ。

モーリス楽器製造と改名する前は、芳野楽器製造(当初は穂高楽器製造)という図式は触れたことだし、そのまた前身たるが長野楽器製造所であったのも以前に触れました。

その長野楽器製造所も、森平氏(モリダイラ楽器)が分裂するように芳野楽器製造を立ち上げ、長野楽器の穂高ギターの販売をやめてから程なく倒産してしまった。

いち楽器製造所の倒産・・・と思いきや、実はこの長野楽器製造所の倒産は、後のギター業界を巻き込むとてつもない引き金となったことは案外知られていない。

1968〜69年には、エレキ・ギターの製造&販売に関わる多くの連鎖倒産劇が繰り広げられ、ギター業界の象徴的悲劇となっている。

この連鎖倒産もその発端をさぐっていくと、長野楽器製造所の倒産にたどり着くから何とも不思議。

理由は案外簡単で、長野楽器製造所の大口資本家が松本のテスコ弦楽器の創設者たる丸山氏(もと富士弦楽器工場長)で、影のオーナーとも噂されていた関係。

この2社間で融通手形を交わし合う関係でもあったことで、長野楽器製造所の倒産を受けてテスコ弦楽器までもが倒産してしまうが、幸い再建の道が開かれる。

とはいえ、資金繰りの厳しい中での再建であれば、テスコ弦楽器に製造を依存&共存する幾多の関連楽器会社で多少資金繰りが悪くなると・・・かくしてテスコ弦楽器関連の連鎖倒産劇を皮切りに・・・それは、長野楽器の倒産が始まりだったという顛末。

2005年11月13日(SUN
先週の続きを綴ってみたい。

「いずれ別の会社から高級品をだす時にいっしょにやりましょう」と語った森平利男氏氏と田原良平氏とのその後の関係に何があったか詳細は解らない。

しかし、ゲスの勘ぐりでもの申せば、「マーケットに需要のある=売れるもの」こそが森平氏の「より素晴らしい楽器作り」であるかのように、田原氏率いる芳野楽器時代のモーリスは、普及品たるエントリー・モデルの類いしか製造していない。

それが時代の要求であれば、田原氏の一流のギター・高級ギター製造に馳せる夢は、森平氏にしてみればリスク以外の何ものでもなく、次第に相反する関係というのも想定内だろう。

実際、田原氏が高級ギターたるジャンボ・ブランドをリリースするに際し、販売協力者たる小林氏=コッス楽器販売はかなり悩んだほど、国産の高級ギターを販売すること自体が異例の事だった。

森平氏の楽器商たる嗅覚は、2年後の1971年にもうかがい知れるだろうか。この頃は、アメリカ関税における特恵問題(免税)による後進国の普及品の追い上げとともに、日本では高級ギターを製造していかなければ生き残れない時代に入ろうとしていた。

この春、モリダイラ楽器から高級ラインたるS.ヤイリのYDシリーズが特約商品として販売される。製造はブランド名たる矢入貞雄氏率いる矢入楽器製造だが、それまでドレッドノートのウェスタン・ギターを製造したことのない矢入楽器にもかかわらず、その短期的順応力というか対応力はすごい。

しかし、何故それほどまでに短期的に対応できたかと言えば、自身の想像でしかないが、恐らくは「マーティンとそっくり同じものを作って下さい」というのが森平氏からの製造契約に際しての趣旨だったのではないだろうか。

真似て作るだけであれば、製造技術が確かな矢入楽器にしてみれば雑作も無いこと。論より証拠と言わんばかりに、初期のS.ヤイリのYDシリーズは、マーティンそのもの。(※S.ヤイリ・ファンに他意はありません。)これこそが時代の要求であり森平流「売れるもの=より素晴らしい楽器作り」なのかも知れない。

その後・・・モリダイラ楽器の傘下たるヤイリは途絶え、また自立の道を歩んだジャンボも死に絶えたが、モーリスは健在だ。これは、ひとえに森平氏の楽器商たる嗅覚の功名と言えるだろう。

とにもかくにも未成熟な時代のツケは・・・残酷である。

2005年11月6日(SUN
そういえば、以前モリダイラ楽器の森平利男氏の後編を書く予定でいたのを思い出したッ。(2003年5/11あとがき)

森平氏の楽器ビジネスの嗅覚の鋭さには、天性もふくめ一目置くものがあることは既に書いたが、本日はその後編を綴ませう。

田原良平・・・銘器ジャンボ・ブランドの生みの親にして、おそらくは日本で唯一マーティンの呪縛から凌駕しストラディバリウス流ウェスタン・ギターを成し上げた生粋のギター職人。

これほどの人物にあって不遇の時代もある・・・全音退社後、楽器用合板の会社を設立・経営(詳細は省略)するが、皮肉にも全音に吸収合併されてしまう。

しかし、元来のギターの虫はおさまることなく、一流のギター・高級ギターの製造に夢を馳せるゆえ退社にゆれていた田原氏に「いずれ別の会社から高級品をだす時にいっしょにやりましょう」と、田原氏の自宅庭に工場建設の資金の面倒を見ていたのが森平利男氏である。

翌年、森平氏は長野楽器製作所から独立するように穂高楽器製造を設立し、その代表取締役に田原良平氏を迎え、社名も芳野楽器製造に変更しスタートしたのが1967年4月。

その後、田原氏は目指す高級ギターの製造のため芳野楽器を離れ、1969年3月に田原楽器を設立する・・・。

何かおかしい。そう、「いずれ別の会社から高級品をだす時にいっしょにやりましょう」といった森平氏=モリダイラ楽器からの販売はなく、小林氏=コッス楽器販売からの協力を得てのスタートだった。

その後のジャンボ・ブランドの躍進は、アコースティック・ギターの流れを変えたとさえ言えるだろうが、森平氏=モリダイラ楽器が高級ギターの製造に乗り出したのは、ジャンボより遅れること2年。それも高級ラインは自社生産していない。

かつて当欄(2003年6/1あとがき)ではこうも書いている。「当時の製造メーカーの意識として遅れていた「より素晴らしい楽器作り」という、今でこそ当たり前の様な意識だ。・・・」

上記の過程から想像すれば、森平氏の「より素晴らしい楽器作り」とは「マーケットに需要のある=売れるもの」という楽器商たる嗅覚、いわるゆ商人(あきんど)としての資質なのだろう。

ゆえに高級ギター・一流のギターの認識、あるいは馳せる互いの夢さえも最初から交わることはなかった当然の帰結とすれば、「いずれ別の会社から高級品をだす時にいっしょにやりましょう」と語りかけ田原氏とともに自社生産工場を立ち上げた森平氏の楽器商たる嗅覚こそが、まぎれもない商人(あきんど)としての資質なのだろう。

2005年10月30日(SUN
ギター業界におけるデジタル化をどう捉えるかは、やはりピアノ業界の推移を観れば一目瞭然、およそ推論付けられるだろう。

かっての豊潤なアナログ・ピアノ・マーケットも、電子化、デジタル化の洗礼を受け、今では圧倒的大多数の購買層のためのデジタル・ピアノを含め果たしてどれだけのプランド、メーカーが生き残っているだろうか。

ピアノに関しては豊富な文献・資料があるので今さら語るまでもないが、ヤマハが「宣伝しなくとも売れる」と豪語していた生ピアノの淘汰劇はギターの比どころではない。

この認識の中で極めて重要な点は、アナログ一筋の木工音楽産業が簡単に電子音楽産業へと移行できない点にあるとも言える。

木工産業と電子産業に求められる資質が相異なるものであるが故に、電子化さらにはデジタル化の時代のフルイにかけられ淘汰されたアナログ・メーカーは、芸術家たる画家がペイント・ソフトを開発するプログラマーで身を立てられない様なものだ。

デジタル化のキーワードは、ソフトウェアー化の進化がもたらす「反物質的」付加価値と、相反する驚異的な「物質的」コストダウン化。マイナー化されたアナログ・ギターあるいは木工音楽産業がどう生き残るかは、もはや夢物語でもなんでもない。

今年は2年ぶりの「楽器フェア」が開催される。参加ついでに皆さん自身で鈍足ながらデジタル化の足音を確かめてみるのも良いかもネ。

2005年10月23日(SUN
竹(バンブー)材のあれこれ:後編

前編では竹材のアコースティック・ギターへの応用がいかに有望かつ合理的かの片鱗を述べたが、後編はいよいよ本題です。

竹というのはイネ科の植物(妙に納得?)で、1本の竹の自然寿命はせいぜい10年程度。これに対し、楽器に使用される一般材の樹木の自然寿命は数百年、中には千年以上の生命力をもつ樹木もある。

つまり、生命サイクル=耐用性という観点で捉えるなら、竹材は10年ほどで朽ち果ててゆく細胞の集合体と言えるだろうか。

そうした観点からうかがえば、なるほど竹材は耐用性が低いように感じる点が多々ある。繊維細胞が縦方向に密集しているからでもあるが、繊維方向によく割れる。素材としても紫外線あるいは酸化による劣化が一般的木材と比較しても遥かに高いように思えるフシもある。

意外な落とし穴?それは、ギター材として竹材の持つの弾性率の高さ・ヤング率云々の有効性・メリットも、反面、竹本来の生命サイクルたる劣化率の高さという観点でとらえれば、特性の劣化・変化にともなう音響・音質の影響に疑問符が浮かび上がる。

竹製バイオリンは梅雨時にもなるとバラバラになってしまったそうだ。これは、接着剤を含めた当時の合板技術の低さでもあるが、接着面での竹材の劣化が絡んでないとも言えない。

ヤマハは、軍需物資として制限下の銅・真鍮に代わるオルガンのリード材として竹材を試みた。確かに良い音を奏でたが耐久性がなく24時間以上はもたなかったらしい。

先の竹製パイプ・オルガンはどうだろう。戦前のフィリピンなどには竹製パイプ・オルガンがあったのは事実らしい。その後の検証たる文献・資料を知らないので興味はつきない。

さて、竹材のもつメリット・ディメリットとは皮肉にも表裏一体という疑問符の中、化学系接着剤の進化は常々高い評価を得ており、また合板技術もより進化しているならば、竹材のメリットたるをいかに持続させる合板技術を開発するかにかかっているのだろうか。

製造ほどない竹製アコースティック・ギターのパフォーマンスの高さも、10年後には鳴らないギターの代名詞たる素材とならぬよう、あらためてどう熟成(あるいは劣性)変化するのか、今後の多角的検証が待たれるところではないだろうか。

2005年10月16日(SUN
竹(バンブー)材のあれこれ:前編

ここ最近、ギターの素材としての竹(バンブー)材のあれこれを考えておりました。

以前、当欄でもヤマハやモーリスのの竹材ギター、あるいはサフォー楽器の竹材ネックを取り上げたりもしましたが、自身が気になっていた素材であった事にも起因してマス。情報音痴は公認済みとはいえ、既に論議つくされたネタかな?

さて、竹の性質は当欄でのバンブーネックの特徴から引用すれば、竹のもつ最大の特性である「素性がすなおで復元力の強さ」(木製100に対して竹製180)・・・。

つまり、説明にある「素性がすなおで復元力の強さ」、竹材の持つの弾性率の高さ・ヤング率云々を応用すればネック材のみならず確かにアコースティック・ギターの素材として極めて有望な材に違いない。

実際に製品化され、ボディ材としてのサイド&バックの形成材のみならず、響板としてのトップ材としても利用され、アコースティック・ギターとしても独特のオリジナリティさえ醸し出している。

それまでの既成木材に代わり竹材を利用した楽器が上記製品以外に無かったわけではない。

敗戦後の日本には物資が不足していた。そこで竹材を利用したバイオリンが作られ売り出された。竹材の性質と相まって、良い音を奏でていたと言われている。

ヤマハは、竹材を使用したパイプ・オルガンの製造を試みた。パイプ部に大胆にも扱いにくい竹材を応用し、もてる木工技術のすべを駆使し完成させ、後に銀座ソニービルに設置され話題にもなったようだ。

なるほど、ヤマハなどは竹材に対する合板応用の基礎技術があってのアコースティック・ギター、バンブー・ギターなのか・・・と妙に納得だけはできそうですネ。

2005年10月9日(SUN
これまで自身の興味・関心と管理者という立場から、ヤマキに関わる情報に触れてきた。これはどういう事かと一言でいえば、時間軸とは逆行した「過去」と向き合う、ということ・・・当たり前?

こうした経験はごく普通に生活している現在進行形的未来志向派にとっては目指すベクトルが逆方向なので、あまり馴染まぬ感覚だあろうし、かく言う自身もその一人・・・というのは笑い話。

しかし、いざ向き合ってみると案外その面白さが少しずつ解るようになるもので、ちょうどジグソー・パズルを組み立てるのと似たような感覚かもしれない。いずれのピースも個々の事実の検証で、組み重ねるピースはどこまでいっても事実の連続といったところか。

ところが過去の検証・事実を知れば知るほど不思議とパズルのピースは増える一方で、一面で組み上がると思っていたものは、いつしか多面的三次元立体ジグソー・パズルと化してゆく。

面白さが多面的に広がるだけでなく、別の1ピース(事実)が、時に意外なピースへの発見のキッカケになったりもする。同じピースが異なる面でも必要になったするうちに、組み立ては時に複雑怪奇。とにもかくにもジグソー・パズル的。

じっくり(のんびりとも言う)向き合うほどに、様々な試行錯誤の過程から逆に学ぶことも決して少なくないのは、未熟者の自身にとって面白い所以。(汗)さりとて単なる事実の検証だけならそう続くものでもない。

全てのピース(事実)ごとに、人間の織りなす魂(スピリッツ)が垣間見えてくる。過去の事実の検証とは、ある意味形を変えた人間学の探求とも言え・・・ゆえに面白いのデス。

2005年10月2日(SUN
デジタル・ギターの登場は、既存の価値観を覆す新たなギター像の模索であると同時に、次世代デジタル・ギターのスタンダードを巡る熾烈な競争のプロローグでもある。

アナログで積み上げてきたスタンダードという覇権構造が、イコール、デジタルでも通用するかと言えば、興味深いクエスチョンだ。

デジタルに求められる王道の「本質」はアナログと変わることはないだろうが、そうしたポスト・スタンダード的切り口から捉えるならば今後の推移・展開は客観的に観ても大変興味深い。

エレキ・ギターは、デジタルであれアナログであれ、そのサウンド・ボードは、拡声器たるアンプのスピーカー・コーンであり、アコースティック・ギターのようなそれ自体サウンド・ボードであるものと発音メカニズムが異なるだけに、デジタルとエレキ・ギターの相性の良さは理にかなっている。

しかし、どんなにデジタル・ギターが発達したことろで、アコースティック・ギターのようにそれ自体がサウンド・ボードである発音体から複雑に奏でるサウンドを体感すると、アナログ楽器たるサウンド・ボードから湧き出る音源のふくよかさに魅了されるものがある。

サウンド・ボードを伴うピアノなどにも同種のことが言えるが、生のふくよかなサウンドを体感できる利を考えると、アナログ楽器たるサウンド・ボードという発音メカニズムは時代遅れどころか、実に豊潤かつ魅力的で、当たり前であることが実は究極の贅沢でもある。

ギターに何を求めるかは人それぞれだが、対デジタルという観点でとらえるならば、豊かさの本質を見失わない限りアコースティック・ギターは生き残れるだろうか?

極論を言えば、先週綴った“一時期にギターに触れ去ってゆく90数%の圧倒的大多数”のためのデジタル・ギターと、豊かさの本質を求めるほんの数%のアナログ・ギターってなこと?

2005年9月25日(SUN

さて、統計学的な正確な数字なぞ知りませんが、ギター購入者でのちにギターを媒介した職業につく人というは、1%に達するだろうか?ギターをたしなむ層を含めて、おそらくは数%程度?

逆説的に言えば、楽器産業というのはギターになぞらえる訳ではないが、一時期にギターに触れ去ってゆく90数%の圧倒的大多数の購買層に支えられているという客観的な見方もあるだろうか。

この90数%の圧倒的購買層のための効率性、コスト性の行方をギターという楽器で占うならば、今後デジタルに求められるものが加速し、やがてアナログとのバランスも崩れてゆくのは必然的だ。

戦後ほどなく、エレキ・ギター開発を模索していたテスコの開発メンバー・金子氏は、当時米軍関係者が持ち込みでもしないと滅多にお目にかかれないアメリカ製「ギブソン・レスポール」エレキ・ギターを手にした数少ない一人だ。

大変良く出来たエレキ・ギターに興味を示しつつも、膝の上でさえ耐えかねるほど苦痛となるその重さに、非実用レベルとの判断のもと当初関心は失せていたと言うが、この感性は案外正しいのだろう。

アナログのソリッド・ギターには必然的な重量が伴う訳ですが、本質を見据えるならば良いサウンドを得る上で軽いにこした事はない。そうした意味では、現在のデジタル・ギターは当時の金子氏でも十分納得出来そうなギターに近づいたかも。

2005年9月18日(SUN
選挙も終ったね。ところで、「派閥をきらうものが、ときに派閥となりうる」という言葉があるようです。

小泉流の手法を見ると「自民党をぶっ壊す!」と言いつつ派閥を根絶やしにしている。超派閥的トップ・ダウン型政治になりつつある。恐らくは彼が目指す政治スタイルなのだろう。

もの言えぬ踏み絵的政治は、裏を返せば政治家の正念場でもある。

さて、今世紀は、圧倒的に映像の世紀。映像たる情報を制するものが、少々乱暴な言い方ですが正義となり勝利を手にする。そうした意味では、活字たる情報は既に死に体であるだけに、マスメディアの実体とは大衆にとって映像たる情報を提供するものとなっている。

映像たる情報をどう提供するかの戦略・ノウハウの研究はさらに進んでいくだろう。しかし、映像たる情報が実に「右脳的」であるという点が自身の懸念。それを要求する側が右脳的なのか、提供する側が右脳的なのか、またはその両方なのか。あるいは映像たる情報という入力形態そのものが右脳的なのかも知れない。

「右脳的」は「女性的」あるいは女性特有の「生理的」判断というと苦情が殺到しそうだが、一瞬で好き・嫌いを峻別する能力というか、白・黒つける瞬間スイッチが生理的判断であり右脳的であると敢えて言わせてもらえば、求める側と与える側、大衆とマスメディアの総意が右脳的あるいは女性的に映る現代社会は正直怖い。

2005年9月11日(SUN
キューテンイチイチの今夜は選挙速報一色。戦後民主政治のおそらくは分岐点になるであろう、それほどにマスコミに情報誘導され情緒不安定的な無関心文化たる国民像を知り尽くしている側に、おそらくは祝杯が酌み交わされるのだろう。

さて、人間には性善説や性悪説があるが、自身の定義はそのどちらでもなく、生来「非常に不安定な生き物である」というものですが、昨今の世相の不安定さには、何か開き直ったような怖さがある。

そういえば、オレオレ詐欺・振り込め詐欺側の言い分は「ダマされる方が悪い」という。一方、それこそ振り込め詐欺など比較にならぬほどの巨額な税金を食い物にした謀略・詐欺まがいが、国家的規模で狡猾に淡々と行われている。

国家の言い分も本音は「ダマされる方が悪い」のだろう。日々繰り返され警鐘鳴り止まないいち民間レベルの詐欺話も、いよいよ本丸たる国家レベルに近づいてきたという寒〜い図式をただ傍観するばかりの時代だ。

戦後60年かけて積み上げてきた体制が否定されつつある現実の中、今夜「ダマされる方が悪い」結末となるのだろうか。

2005年9月4日(SUN
もう2年半前・・・新製品のデジタル・ギターに絡んだ話題に触れましたが、その後の見解は変わることなくデジタルは今だ少数派ながら、デジタルとなるとカテゴリーが異なるかのごとくサイレントと称して、あたかも音の静かさを強調するのは面白い。

サイレントと言えば、元来アナログのエレキ・ギターこそサイレント。音量を自由にコントロールできる。されどエレキ・ギターにサイレントという認識はなかなか馴染まないよネ。

ギターのエレクトリック化そのものが音量を拡大していく歴史のようなもの。そこにロックの登場とともにエレキ・ギターがあたかも大音量的代名詞であったことを踏まえると、デジタル的サイレントという切り口は、歴史を逆手にとった、いわるゆ看板の架け替えに過ぎないのだろうが、メーカー側の「逆転の発想」に付加価値を加えたという点が面白い。

LINE6社が既存のアナログ・ギター・マーケットと競合するリアル派に対し、過渡期的デジタル製品はいずれも同じ土俵には上がれないというメーカー側の本音と苦悩と努力と希望とが複雑に入り交じり開発コンセプトと同化している。

エレクトリック、アコースティックともどもギターというものがおおよそ完成の域にある楽器であれば、デジタルといえど生半可な製品では通用しない、というのが自身の本音ですので、デジタルに求められる王道の「本質」はアナログと変わることはないんだけどネ〜。

2005年8月28日(SUN
「ヤマハ」あるいは「YAMAHA」命名の由来が、創始者・山葉寅楠の姓にあたる「山葉」によることはご承知でも、本来は「山羽」であったことは案外知られていない。

「山羽」イコール「YAMAHA」と連想されるだろうが、正確には「YAMABA」である事実は、ことさら知られていないだろう。

創業初期の風琴(オルガン)ロゴには、ちゃんと「YAMABA」と銘打たれている。オルガン研究家にあっては周知の事実なのだろうが、既にアナログのオルガン自体が淘汰された絶滅種?となって久しいだけに関係者も極めて少なく、結果としては意外なブラインド・スポットとなっているのだろう。

おそらくは、洗練されたブランド・イメージを意識されて濁音を嫌ったのであろうか。また、楽器製造とはいえ木工が主であれば「羽」よりは「葉」に変えた方が「山」との相性という点でも木工のイメージが湧きやすい・・・この改姓には企業戦略のみならず、寅楠という人物の片鱗をそこはかとなく感じさせますネ。

さて、洗練されたブランド・ネームとなると濁音は御法度なのだろうか。ヤマハのみならずトヨタの例もある。YAMABAやTOYODAとなると確かに田舎のズーズー弁風だ。楽器産業でいえば森平氏はモーリス、寺平氏はヤマキを選択した。

ダイオンを設立した寺平安幸氏は、改名するほど姓名判断に関心を寄せていた方だったらしく、自身の名を太一と改名しただけではなく、兄でありヤマキ楽器の創始者・寺平一幸氏にも影響を与えていたと思われる様に、一幸氏もある時期まで雄次という名を対外的に使用しているのだが、それほどの人物にあって、ブランド名としてのダイオンはどう映ったことだろう・・・。

2005年8月21日(SUN
さて、失われた10年という不遇のなか21世紀を迎えたからという訳ではないが、我々人類に科せられし21世紀のキー・ワードというのは既に決まっている。

アメリカは9.11を境にアフガン、イラクに戦争を持ち込み、そこに自由という名のアメリカ型大量消費文化を建設しようとしてる。つまり、太平洋戦争で勝利したアメリカが日本に持ち込んだ同じ手法・方程式だ。

国益に根ざした石油利権というのが本命だろうが、一方で、効率よい破壊に根ざした大量消費文化と地道な再生に根ざした質素な精神文化の、いわば見えない2つの「文明の衝突」が起きている。

民族の存亡、ひいては人類の存亡自体を問われているとされる21世紀元年・・・と、かつて当欄でも記したが、21世紀のキー・ワードたる「シンブル・ライフ」とイスラムの教典でもあるコーランは共通するものがある。

中東にアメリカ型大量消費文化国家が新たに生まれるかどうかは、おそらくは人類の存亡そのものを問われていると言っても過言ではないのだろう・・・。

2005年8月14日(SUN
「何かぼくの将来に対する唯ぼんやりとした不安」・・・文豪・芥川龍之介がこの世をはかなみ命を絶った理由とされます。日本の現状を例えれば、この「将来に対する、ただぼんやりした不安」という事だろうか。

文豪ゆえの名を拝借すれば、芥川病が日本中あちこちに蔓延している中、適切な処方を問われ、切り開くべき道を問われてはいる。

バブル崩壊以来、「失われた10年」という言葉が生まれるほどの景気低迷期にあえぎつつも、10年ともなると「10年ひと昔」あるいは「ひと世代」などと言われる中、一方では「戦後60年」を迎え、節目となるであろう複雑な夏を迎えている。

節目といえば、「失われた10年」がもたらした教訓は、おそらくは鎖国から開国して以来、欧米の大資本主義にあらがうかの様に奔走してきた日本の総決算に当たるとともに、「平和と自由」に象徴される戦後最大のイデオロギーである「自由」というものが、個々を含めた社会全体でいかにもろいものかを露呈させている。

開国より既に150年を迎え戦後60年目に生きる自身は、おそらくはこの「失われた10年」というものがなければ、明治維新より変わらぬ大道ならぬ「エチゴヤ」を、切り開くべき道の先にある「国家社会の目指すべき道」と相も変わらず誤解していたかも知れない。

そうした意味では、現在に生を受けていることに案外感謝している。

2005年8月7日(SUN
先のアスベストと山葉寅楠(ヤマハ創業者)との関係は、現状においては案外衝撃的な事実かも知れない。

しかし、寅楠が合成化学研究の新たな道に乗り出し、耐火性に優れた石綿にたどり着き、アスベスト関連製品を生み出したのには様々な理由が考えられる。

一つには、新たに導入した合板部門の好調を受け、更に魅力ある関連製品の開発を目指したのかも知れない。

もしくは、工場出火により打撃を受けてきた自社生産現場に、耐火製品をいち早く導入させたかったのかも知れない。

あるいは、国家教育と密接な関係にあった利を生かして、日本の教育施設建設に新たな需要を夢見たのかも知れない。

いずれにせよ、寅楠が生み出したアスベスト関連製品は、開発当時はまぎれもなく新たな魅力を備えた製品であったと言えるだけに、後世これだけの功罪を生むきっかけとなろうとは夢にも思わなかったことだろう。

2005年7月31日(SUN
何かの拍子で偶然映ったTV番組の中で落語家・立川談志師匠いわく。

“・・・ってのが事実!だいたいが真実なんてもんは、そもそもありゃあしない!”ってなフレーズに一興感じた次第でゴザイマス。

「真実」・・・この世にはありえない、あの世的なもの。故に神のみぞ知るのでしょうか?あたかも表裏一体、光と影、時には一心同体であるかのような「事実」と「真実」にあって「真実」とはなんぞや?

さて、7月を通じて話題のアスベスト(石綿)問題。今後も何かと長引きそうな気配。実はこのアスベストには『偉人伝』にも登場する某人物が絡んでいる。

アスベスト(石綿)問題をこぞって取り上げている各紙面・報道関連でも、ましてや情報文化のお助け「検索サイト」でさえ、未だこの事実関係は全くヒットしない・・・つまり豊潤な情報文化社会にありながら歴史の「事実」から完全に埋もれているのは何とも不可思議。

アスベストがらみの某偉人とは、誰あらんヤマハの創始者・山葉寅楠である。この事実にふれ驚く音楽愛好家は多いことだろう。マスコミにあっては格好な時事ネタかも知れない。

ヤマハの創始者・山葉寅楠は、国家権力層と緊密な関係を保ちつつ学校という潤沢な販売網を手中に収め、新たな開拓先として満州、中国へと開拓の手をゆるめぬばかりか、楽器産業以外の起業にも意欲的な活動を見せていた。それらは全て木工をベースとしたものであったが楽器産業ほどの成功は見なかった。

そうした中、山葉寅楠の新たな取り組みが、彼自身の終章を物語ることにもなる合成化学研究への取り組みであり、苦心の末1908(明治41)年に得たアスベスト製法特許である。関連資料によると秩父や北遠の剣山に石綿鉱の探索を重ね、1912(明治45)年には、アスベスト製法特許による日本耐火製板株式会社を設立するに至っている。

さて、合成化学研究へ傾倒する中、山葉寅楠は1916(大正5)年8月逝去。理由は肺結核による病死ということだが、当のヤマハの資料においてもその多くを語られてはいない。

化学薬品の毒害と過労よるもの・・・とされている。もちろんそれがアスベストによるとはどこにも記されていないが、さりとて寅楠氏の死亡要因がアスベストによる肺ガン、中皮腫となれば、おそらくはアスベスト死亡認定第1号となるのだろうか。

さて、「真実」いや「事実」はいずこに。あるいは、やはり神のみぞ知る・・・のでしょうか?

2005年7月24日(SUN
22日付けの新聞紙面に、活字文化を振興するための文字・活字文化振興法が成立したとの小さな記事が載っていた。

確か『声に出して読みたい日本語』なる書籍がちょっとしたブーム。いわゆる活字文化としての日本語ブームのようにも思いますが、いずれにせよブームとはいつの時代でも愚行まがいなものだけに、タネを蒔いただけで終わるのかどうか・・・。

自身は常々気になるのですが、上記書籍を読まれるような支持層にあって、未だ「パパ」「ママ」と呼び合う親子関係って、根本的なボタンの掛け違い?の様な・・・りっぱな成人たるが、未だ自身の両親に対し「パパ」「ママ」と呼び合う様に至っては、改めて日本文化の「現実」を思い知らされます。

日本文化、そのアイデンティティの何たるかを知る前に、自身はいつもこの国は「にほん」なのか「にっぽん」なのか不思議でならない。

一国のアイデンティティたる名称がどちらにあるのかさえおぼつかないこの国のアイデンティティの何たるかを改めて問われる時期に来ているというのであれば、敗戦という意識的後遺症が長く尾を引くこの国においては、「団塊の世代」というよりもむしろ「敗戦世代」から取り組まなければならない根深い問題と言われかねない。

2005年7月18日(MON
週末来、某旅行をキャンセルしノンビリしております。予定先の「愛知博」は、過去最高の入場者数だそうで、パビリオンの入場待ち時間が最高7時間!と報じていただけに、結果オーライかな。

さて、これまで様々な情報を眺めてきたが、その中でも案外面白かったのが自分史、つまりは個人の生き様を綴ったものだったりして、ときに専門的な活字情報からは得難いような情報もあり、それなりに有益だったり、感心したり・・・。

それまでは高嶺の花の自費出版なども、10年ほど前から値段も徐々こなれてきて、現在では自費出版マーケットを築いていますネ。

そんな自分史の編纂って、それなりのご高齢だったりするのですが、ご自身の過去を驚くほど正確に把握している。把握しているからこそキチンと情報が整理できている・・・すごい事だナ〜とつくづく感心していた次第。

自費出版するほどたいそうな人生でもなく、歳でもなく、またカネもなく、さらさらつもりもないのですが、現時点での自分史を綴っておくことって、案外面白そうだナ・・・と思ってマス。

一寸これまでの自分史を振り返ってみただけでも結構ややこしい事柄ばかりですが、何より自身の歴史だけに案外面白ろそうな・・・パソコンなど便利な道具さえあれば作業自体さほどの事はない。

自身のデータベースあるいは備忘録として紙媒体にこだわらなければ、流行りのブログの様なWEBベースが断然良い。従来の書籍出版を目的としたワープロや編集ソフトによる書籍形式データとは、その表現自由度の差は圧倒的に異なる。

どちらにせよ曖昧な記憶を一度整理しておく良い機会じゃないかナ。

あッ、そういえばあの人の・・・う〜ん、正確な名前が・・・え〜ッと、どうしても思い出せない〜〜ッってな経験、ありませんか?

2005年7月10日(SUN
7月6日のニュース番組で、巨大マンモス病院OPENとして順天堂大学医院・練馬分院の紹介をしていた。興味あるニュース情報ではあるが、自身の関心はそこにはない。

順天堂大学医院として自身が思い浮かべるのは、ただ一つ・・・それは、順天堂医院長の次男にして空母の軍医長として戦死された佐藤篤氏の存在です。

佐藤篤・・・日本におけるギター史に寄与した先覚者の一人である。

1929(昭和4)年に来日したセゴビアですが、驚きにも似た賞賛とともにギター演奏に情熱をそそぐ当時の日本音楽界にもたらした新風は、今日まで長く語り継がれ神話にさえなっている。

そのセゴビア来日時に、佐藤氏は自身の研究・考案したピタゴラス平均音階のいわるゆ純正調律に関する資料をセゴビアに手渡したが、当のセゴビアはその何たるかを理解していなかった。

そして純正調律を求めてかの高名な宮本金八氏に製作依頼されフレッティングされたギター(ギタローネ)は、おそらくは日本初あるいは世界初の記念すべきギターであったかも知れない。

そのギターは、ボディ形状はバイオリン風ながら指板には象牙により各弦上微妙に異なるフレッティングが施され、日本のギター史上においても記念すべき逸品であるはずが、戦火の炎で消失してしまったという。

日本ギター史上においても、これほどの意義と価値ある存在のギターでありながら、現代に至っても佐藤篤氏の存在とともに目に触れ語られる機会がないのは残念なことだ。

出来ることなら、心ある製作家により再研究され●●●協会の協賛のもと復元されるべきギターとして、佐藤篤氏の存在とともに日本ギター史の貴重な足跡として永久展示されるような機会に恵まれることを期待したい・・・。


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