当サイトに関する事や、広く楽器・音楽に関わる事、身近な出来事などに対するつれづれなる想い事をしたためた「DESSIN(デッサン)のひとりごと」です。
【お願い】当欄執筆内容の著作性を損なう引用・転用をお断り致します。

●あとがきVOL.13
VOL.14(2012年1月〜)
VOL.12(2010年10月〜)
VOL.11(2008年1月〜)
VOL.10(2007年1月〜)
VOL.09(2006年1月〜)
VOL.08
(2005年7月〜)
VOL.07(2004年&2005年〜)
VOL.06(2003年12月総集編)
VOL.05(2003年10月〜)
VOL.04(2003年7月〜)
VOL.03(2003年1月〜)
VOL.02(2002年9月〜)
VOL.01(2002年オープニング)


来年は更新未定のため一足はやめのご挨拶・・・by DESSIN

2011年12月30日(FRI
‘大安吉日’第八「談」・・・晦日にして今年最後の‘大安吉日’です。

12月に入り注目すべき書籍が発売された。『ルーズベルトの責任【日米戦争はなぜ始まったか】上・下』日米開戦記念日に合わせるように上巻は発売され、下巻は来年1月発売予定である。

関連書籍として『真珠湾ー日米開戦の真相とルーズベルトの責任ー』が平成11年12月8日に発売済みながら、両書籍が注目に値するのは終戦後わずか2〜3年後にアメリカで発刊されていた点にある。

真珠湾に象徴される日米戦争が、知的検証により冷静に分析され、いずれも終戦後わずか2〜3年後に世に問われているにもかかわらず、なぜ「9.11」に関してはそうした知的検証たるメディアが表れないのだろうか。

メディアという情報力があたかも時代と逆行し退化しているかの様な些末感さえ覚える。

アメリカはいまだ国益のために「戦争を作る」国家でり、国益のためならやむなしと、国家とメディア間で蜜月関係を結んでいるとするならば北朝鮮以上に恐ろしい国家だが、そんなアメリカ像を見習い国家建設に邁進しているのが中国・・・となるのだろうか。

震災復興中の日本なれど、あらためて“日本人”が問われている一冊だろう。

さて、昨年から再開した当欄「あとがき」を通じて、本邦初となる様々な実験を発信させて頂いた・・・目立たぬ微々たるサイトながら実験の手応えも相応に感じました。

来年も実験は継続して参りますが、来年は【ギターと考えるヒント】といった新テーマにそって進めていこうかと思っています。ただし、大安吉日繋がりの更新にはチト無理がありそうですので・・・適当に。

「ギターとデザイン考学/完結編【ギター産業の行方】」
「完結編」と題しつつ、さも長々と書くつもりはないです・・・年末はなにかと忙しいものです。

冒頭、21世紀の現・ギター産業像をまずは正しく認識する前提として、その“適材”としての雑誌『ギター・アラウンド・ザ・エイティーズ』百花繚乱の「'80年代ギター」大図鑑(シンコー・ミュージック・ムック/2010年10月19日発行)を引用したい。

'80年代というと、日本では1977年「日本ギブソン」設立、1982年「フェンダー・ジャパン」設立の流れを受け、否応なくオリジナリティに活路を求めた時代と言っても過言ではなく、そうした日本のオリジナリティに対抗するかのように、本家アメリカでも様々なモデルを輩出した時代でもあり、ゆえに雑誌の副題にもあるような“百花繚乱の'80年代ギター”となるのだろう。

しかし、この雑誌・・・見方を変えれば“失敗作の見本帳”でもある。勿論すべて・・・とは言わないが、その殆どが生き残る術もなく事実上姿を消した失敗作ばかりである。

さて、何をお伝えしたいのかと言えば、本家アメリカのフェンダーやギブソンでさえ、実態は日本同様失敗作の連続であり、現状を冷静に見据えるなら、半世紀前のほんの幾つかの成功例たる“原型(スタンダード)”以来、いまだ“原型(スタンダード)”だのみなのである。

言い換えれば、本家アメリカですら“原型(スタンダード)”以降、半世紀を過ぎても未だ新たな成功例を見ない・・・つまり、ほとんど何も為しえていないという結果論が見え始めている。

つまり、チャンスは目の前に転がったまま数十年が過ぎようとしている・・・これがギター産業の現状である。

こうした現状のなか、様々な模索がある。モリダイラの様に新たにギター製作学校を設けるものもあれば、ヤイリの様にギター・デザインを公募するもの、あるいは、富士弦グレコのように企業理念を曲げてまで過去のコピー・モデルを復活発売したり・・・いずれも日本のギター産業が行き詰まっている以外の何ものでもない。

中国を含む後進国の安価なギターの突き上げも厳しい中、ギター製作がルシアーを含め徐々に個々に拡散しつつあるここ数年来の顕著な傾向・・・。

既存メーカー側にしか為し得ない楽器としての“差”、イニシアチブとなりえる“存在価値”を問われ始めていると同時に、生き残る術を模索しているというのが、恐らくは正しい現状認識となるのだろう。

果たして、ギター産業のこの現実・実態をどう理解すべきなのだろうか・・・。

昨年、自伝出版の中で椎野秀聡氏は見解を記している。『楽器製作においてコピーモデルを作ることを、私は決して恥ずかしいことだとは考えない』と。

確かにコピー・モデル以上の成功例を見なかったのは聡明な椎野氏のギター像を物語ってもいるのだろうが、そうした現実のもと、ギター産業は間違いなく創造的飽和点を迎えてしまっているかの様であり、転換期たる新たなビジネス・モデルを求めているかの様でもあるが・・・さて?

実は「さて?」という“疑問符”こそが、「ギター産業の行方」というテーマへの自身の用意した意地の悪い答えである。

語るべき言葉は入念に用意もしたが、たえず答えが提示されるとは限らないという事である。

むしろこの“疑問符”こそ、自身から興味関心を寄せて頂きここに辿り着いた皆さんへ尋ねたい“疑問符”として、今年のテーマ「ギターとデザイン考学」を締めくくらせて頂きたく思います。

そして、最後に今一度この言葉を添えさせて頂きます。

チャンスは目の前に転がったまま数十年が過ぎようとしている・・・

さて、今年は想定外の大変な一年でした。来年は想定を実現させ、さらに元気な日本の一員となりたいものですね・・・それでは良き新年をお迎え下さい。

2011年12月25日(SUN
今年は震災に配慮されてか、巷のイルミネーションがおとなしいだけに商業的な盛り上がり感も今ひとつながら、自身はというと歳負うごとにどうでもよい儀式になりつつある。

もはや景気を左右する商業的儀式だけに、どうでもでは済まされないだろうが、心情的には・・・である。

12月に入り早々、ヤフオクでは某書籍が高額落札されていた。その書籍タイトルは『完全なギター・リペア日本語版)』(ヒデオ・カミモト著)。1万円を超す入札額で五名もの方々が落札を競い合っていた。

こうした動向一つとっても、自身が分析した様に近年ギターを作る方々、あるいは関連技術としてギター・リペアを収得しようとする方々が増え個々に拡散している現状が伺い知れます。

自身も予備を含め『日本語版』を二冊所蔵している。しばらくの間コピーしか手元になかったその反動?ゆえ手放すこともないが、少なくとも当欄「あとがき」に立ち寄られる様な方々にはお薦めの一冊と言えるだろう。

もはやバイブルがごとく所蔵される現状にあって、今後は落札額15,500円を更に超えるであろう可能性も含め、にわかに遠い存在になってしまった観がある。

自身のものは1979年4月20日初版と、同年11月10日第2刷版のものですが、初版止まりかと思いきや第2刷まで印刷・出版されたのであれば、根気よく探せば貴重な『日本語版』は見つかるかも知れない。手頃な値段で見つけたなら即ゲットかも・・・。

ギター・リペアというと、音楽雑誌『Player』で1979年7月号から岩撫安彦氏執筆によりスタートした「GUITAR REPAIR」コーナーの方がなじみ深い方々も多いのではないだろうか。

発売毎に岩撫氏の「GUITAR REPAIR」コーナーは、プロの現場を想像させる新鮮かつ刺激的な内容でした。

1981年の夏に発売された『Player』誌上で岩撫安彦氏が運営する「GUITARIX(ギタリックス)」広告を拝見以来、実は当時の広告の切り抜きを不思議といまだ取ってある。

ヒデオ・カミモト氏の初版が1979年4月に出版されていることから、その内容に刺激を受けた岩撫氏が、『Player』誌上でご自身の馴れ初めでもあるギター・リペアの経験や見識を織り交ぜ新たに「GUITAR REPAIR」の執筆を始めた・・・正しく適材適所にあって必然的タイミングだったのだろう。

流行とともに製造する技術ばかりが優先され、巷に溢れだしたギターと比例するように必要とされるギター・リペアながら、的確な技術論が確立されていない当時の日本にあって、いずれもその道を切り開く画期的資料であり、他に類を見ない貴重な存在であったことは間違いない。

さて、今回はいささか前置きが長くなってしまったが、毎年この時期にはクリスチャンでもない自身の恒例となる聖なる“懺悔”ながら、今年は何を祈りたまおうか・・・。

「ギターとデザイン考学/新・ギター産業学 or 『絃楽器解体眞論』」
ギターに関する歴史となると、そのルーツや発達史的学術書は多数あるが、産業学的見地から分析された書籍となると、その切り口は様々ながら僅かに世に問われているものがある。

されど、例えば自身が新たにスポットを当てた戦前の名古屋にあって、地場産業たるギター製造業界を巻き込んで、名古屋洋楽器卸商組合の大手を中心に“舶来ギター商法”もどき行為により、ギター・ブームにあかやって長らく世界大恐慌下の景気低迷どころか倒産寸前から脱出する契機と成したであろう歴史的側面を語るものはこれまで皆無である。

それらが新たな「ギター産業学」を築く“礎”となるかどうかは・・・みなさんの知的好奇心に委ねられていると言っても過言ではないだろう。

とはいえ、これまで光も当たらず暗闇の中に隠され続けていた扉にスポットを当て、その扉の鍵を開けたに過ぎずない。その錆び付いた重い扉をこじ開け、まばゆい光を差し込むと同時に新たな歴史の事実が語られるのは、遅かれ早かれこれから始まるに違いない。

動向を伺う限り、当時の資料等を入手し新たに調査を始めているであろう複数の存在が伺えるばかりでなく、かつてない“新たな流れ”が既に始まったと分析して良いだろう。

これまでイタリアやスペインの「名門○○○○○」などと称し、オークション・その他で法外な高額落札や売買を誘導していた物件もパッタリと鳴りを潜めつつあるが、それらはあくまで氷山の一角である。

やはりこの路にも二枚舌を使う大蛇や魑魅魍魎ごときが大勢うごめいているのは相も変わらずで、賢明な知識と知恵で対処するしかないのである。

最近、検体入手とともに解ったことだが、佐藤商会の「CALACEカラチ)」ギターは、戦後の昭和26年ごろまで、そのギター内ラベルに“Anno 1938”と銘打っていたことが判明した。

戦前「CALACE(カラーチェ)」ギターを連想させる偽装とおぼしき表記ながら、“Anno 1938”イコール“1938年製造”ではなく“1938年型モデル”という新たな解釈なくしてつじつまが合いそうもない。

少なくとも「CALACE(カラチ)」ギターの“Anno 193X”表記は、戦前製造モデルであれ、ラベルにあるその製造年の信憑性を疑ってみる方が賢明である。

佐藤商会同様、戦前から終戦後ほどなくまで「IBANEZ SALVADOLイバニヱズ・サルバドール)」ギターを卸・販売していた星野楽器店が、新たに「IBANEZ」という商標を買い取り、ギター工場「イバニエズ楽器工業(株)」とともに再出発を果たしたその背景には、終戦後ほどなく再開され始めた国際商取引の表舞台に戻るために‘商社として必要な儀式’だったのではないだろうか。

戦前にカタログ明記されていた「イバニヱズ サルバドール社」とは、「IBANEZ SALVADOL(イバニヱズ・サルバドール)」を商標登録された上で展開された商関係だったのか、唯一気になる点である。

貴重な歴史を物語る検体は他にも複数あるが、「検体」「資料」「歴史認識」の三要素が揃うと、かなり緻密に分析が可能であるが、検体分析に関しては、ギター製造のノウハウや技術まで有していると更なる分析か可能である。

本邦初の提言となるが、戦前の名古屋「鈴木バイオリン」の倒産からの危機を救ったのは“バイオリン”ではなく、実は間違いなく“ギター”だった。

当の「鈴木バイオリン」が否定しようが、その実態は貴重な調査資料から判明しており、これまで一切語られることが無いこと自体不思議なくらいだが、いずれも「ギター産業学」というものがいまだ路半ばたる証左でもある。

「鈴木バイオリン」に限らずいずれも現存する数少ない検証可能な企業である。興味を持たれる近隣の方々にあっては、過去の事実を語れる記憶や記録たる資料類は残されているであろうだけに、直接取材し新たな歴史認識の発掘を試されるのも良いだろう。

ただし、いずれも過ぎ去りし過去の「歴史」として、寛容な視点で「事実」認識のみを歴史分析されることを願うものである。

日本のギター製造の歴史には、いまだ光の当たらぬ新事実が多数眠っている。その深い眠りを呼び覚ますのは、他でもない“無類のギター好き”かも知れないが、程度の差こそあれ自身もその同士・同胞の末席に加えさせて頂けるなら幸いである。

さて、ギターの路すがら藪のなかに虎視眈々と獲物をうかがいうごめく無数の大蛇・魑魅魍魎たちも二枚舌が使えないのか“物件”が一気に減った観がある。

それなりの価値で流通すれば良いだけの話しではあるが、実態として減った“功罪”はあるのかも知れない・・・アーメン。

2011年11月27日(SUN
インフルエンザワクチン接種以来、調子の悪い週末を迎えています。予定更新もやめようかナ・・・「Fernandes(フェルナンデス)」というとエレキの話になってしまうが、1970年頃の試作品とおぼしきギターを入手。

フェルナンデス・ブランド以前を伺う貴重な検体でもあるが、どういう経緯でこうしたギターが市場に出てくるのか・・・興味深い。

実用として入手したゆえ改造を予定しているが、来年度の新テーマ「考えるヒント(予定)」の中で改めて取り上げてみたい“素材”でもある。

「ギターとデザイン考学/情報化社会と諜報化社会」
「9.11」から10年目を迎えた節目に、池上彰氏が報道特番の中で「エシュロン」を取り上げていた。

報道特番での「エシュロン」に対し、十年を過ぎて‘何をいまさら’という想いと、それでも‘報道としてよくぞ取り上げた’という二つの想いが交差していた。

「9.11」当時のリアルな報道を発端に「エシュロン」という言葉がTV報道で飛び交うようになり、それまでの“うわさ話”が確信へと変わっていった瞬間に違いないだろう。

わずか数ヶ月後の新聞社会面下段に欧州エシュロン調査委員会が、エシュロンの存在を断定した・・・という小さな記事を載せていたが、同様の記事を同報道特番でも紹介していた。

「9.11」の数年前からその存在を懸念していた。某雑誌記事にはエシュロンのみならず追跡ソフトの存在や、三沢基地内にエシュロンの出先機関が存在するらしい、とまで指摘掲載されていたが、いずれも事実だった訳である。

さて、戦勝国にのみ特権として存在し続ける諜報機関は、アメリカの「エシュロン」のように、ネット社会を見据えた盗聴組織に変貌し、“国益”の名の元に日本国内においても盗聴活動を展開している。

我々は、すでに「情報化社会」から「諜報化社会」へと変貌している“事実”を認識することから始めなければならない“現実”を池上氏は伝えたかったのだろう。

さて、そんな“現実”の一端となるのかどうか・・・当欄「あとがき」の実験には様々な意図があると前置きしているが、興味深い実験経過をご報告したい。

当欄での「ヤマハ赤ラベル」レポートの中でも、4月17日発の新説“エレクトリックRickenbacker原型説”がとりわけどう推移・定着していくのか、Google上での検索動向をある種バロメーター代わりとしています。

その後2か月間更新しなかったのには、実はそれなりの訳と意図があったからであるが、ある時期を境に徐々に下がっていく・・・対して、さほどでもない自身の「赤ラベル」レポートが検索の上位を保っている。

『不都合な真実』という映画タイトルを思い出すが、まるで大組織にとって都合の悪いレポートは、組織ぐるみで蚊帳の外に追い出しているかの様な動向ながら、いまや検索対象から外れてしまっている。

自身のつたない経験則をもってしても意外な展開であり、それだけに興味(妄想)をかき立てられるのである。大組織ならではの確信犯なのか、あるいはそうでないのか・・・。

ヤマハがらみのレポートでは、2005年7月31日の“創業者:山葉虎楠とアスベスト(石綿)問題”も日本初“時事問題”として紹介したが・・・こちらは今や実態が複雑になっている。

いずれも自身のつたない経験則に基づく“感”が、違和感を覚えると共に、これまで得意の妄想を膨らませる様々なキッカケを産み出してきたが、いずれも事実は・・・一つである。

2011年10月23日(SUN
‘大安吉日’第七「談」・・・取得されることはないだろうとタカをくくっていたドメイン・ネームが登録済みだった。

認識が甘かったゆえ担保としてドメイン登録する展開となった・・・という事は“本命”は無事登録できたということながら、余計な出費ではある。

‘大安吉日’つながりの日・祝オフ日を選んで綴ってきたが、今年最後の該当日となる。つながりはいったん切れるが、11月末と12月25日、そして晦日の30日(大安吉日)をもって今年を締めくくりたい。

キーワードで検索してもヒットしないよう敢えてマイナー指向で設計した当サイトながら、案外実験効果?らしき感触も随所に出始めている。

無知・無学ゆえの反動たる好奇心とともに、今後も山積している本邦初となる様な実験課題を地味〜ッに発信し、起こり得る化学変化をしっかりと見届けたい。

「ギターとデザイン考学/再燃?右脳と左脳」
興味深い事に『アコースティック・ギター・マガジン』でアーヴィン・V・ソモジ氏までもが、右脳・左脳のロジックを語り始めた。

同様の話題は、2003年4月27日の当欄「あとがき」でのLINE6社の社長へのコメント以来となるが、遡れば2002年11月24日〜12月22日までの「脳と資質のお話(その1〜4)」を振り返る様な話しである。

過去のテーマを改めて再燃するつもりはないが、おそらくは年末予定稿とも少なからず繋がる“前説”ぐらいにはなるかも知れない・・・。

さて、自身はそんなソモジ氏に対して‘右脳・左脳のロジックを客観的に語れる知的洞察力にも似た資質を備えているからこそ貴方は成功をおさめているのだろう’という言葉を贈らせて頂く。

日本には「さじ加減」という言葉があるが、実はそうした感性・感覚をつきつめていくと、創造する側に必要不可欠な資質がおのずと見えてくる。

ギターを作るハードウェア的技術など正直どうにでもなるが、創造する側に必要不可欠な資質というものは後付で容易に付いてくるものではない。

そのほとんどが生まれ持った性格・性質といった資質に負うところが大きく、だれもがソモジ氏になれる訳ではないのである。単純に言ってしまえば“生き方(価値観)の指向性”とも言えるだろう。

ソモジ・ギターを真似たからといって、もちろんハードウェア的方法論は何かしら収得できるだろうが、それがソモジ氏同様の資質まで身につく訳ではない。

ソモジ氏は、誰しもが備わる能力という。間違いではないが、「ギターとブランディング」論の要素ともなる「社会に提供できる価値」に対する優劣という篩(ふるい)にも似た厳しい審判は自ずと生じるものである。

“生き方(価値観)の指向性”による“素養の違い”とも言えるだろうし、好意的にはそれを“個性”と称しても良いだろう。

しかし、そうした“個性”も最初は話題として取り上げられるかも知れないが、長い目で見ればことごとく消え去る運命であるのは、過去の歴史が雄弁に物語っている。

少なくともソモジ氏が語る右脳・左脳のロジック論は、必要とされる知的洞察力にも似た資質を備えた側からしか語れないステージ論を示唆していて、ソモジ氏のギターに対する絶対的自信の裏付けにもなっていることが伺える。

近年、ギターを作る方々が増え個々に拡散している傾向だと分析したが、それらは専門メーカー、中堅工房、ルシアー、趣味人を含めハードウェア的技術を持っているという事で、イコール、創造する側に必要不可欠な資質を備えているかどうかは別問題である。

ハードウェア論に偏り過ぎると、結果として辿り着くのは“ものまね的王道”を追求せざる得なくなる。

そんな“ものまね的行為”に少し飽きたとして、結局行き着く先は“ものまね”の域でしかない。知的修練を怠った感性の行き着く先の姿である。

同時に、数十年来ギター産業界が試され続けている“大問題”であり、おそらくは年末予定稿の今年選択した「ギターとデザイン考学」の総括となる。

来月11月初旬には二年に一度の「楽器フェア」が開催される。試され続けている楽器産業界を占う絶好の機会でもある。

さて、冒頭のギター専門誌は“木材特集”とともに、楽器用木材の国内最大手となる「アイチ木材加工」が紹介されていた。なかなか面白い企画である。

しかし、なぜか当該ホームページから掲載専門誌に至るまで一切記載されることはないが、前身は1976(昭和51)年2月下旬に倒産した「小島木材工業所」である。

1932(昭和7)年、小島豊四郎氏により創業されて以来(※戦前、古賀政男によりギター・ブームが巻き起こった頃である!)、名古屋の弦楽器産業を支え続けてきた中心的存在であった。

倒産後、「コジマ木材工業所」を経て、1980(昭和55)年7月、「アイチ木材加工」に改称した緯事経実が語られることはないが、過去の業績に敬意を表するなら記すべき社歴の一部ではないだろうか。

こうした事実経緯をよそに以前から個人的に興味を覚える点が一つだけある。

改称以降、丸山秀男氏であった代表取締役も、現在は丸山晃司氏とのことですが、“丸山”には「テスコ弦楽器」「長野ナガノ楽器製作所」の丸山 正氏以来どうしても気になって仕方がない・・・ゆえに得意の妄想が膨らむばかりである。

誰一人関心を寄せることもないであろう妄想の独自方程式は出来上がっているが、かつて記されることもない隠された歴史を紐解くことになるのかどうか興味は尽きない・・・。

2011年9月25日(SUN
‘大安吉日’第六「談」・・・ 昨年末、伝えたい“言葉”があったが、同じようにこの年末に向けそれらしい新たな“言葉”が見え始めている。

それをどう“言葉”に託すかは難しそうな、そんな予感めいたものもあるが、新たなテーマ&メッセージになるかも知れない。

当欄そのものが実験の一環であれば、果たしてどういう化学変化を起こすのか予測できないが、実験課題ばかりが山積しています・・・。

「ギターとデザイン考学/〔B〕ギター vs 〔F〕ギター」
200X年、楽器の祭典“”発表を機に発売となったアコースティック系ギター。

開発には、ミュージシャンが絡んでいて、その経緯は、ギター雑誌『』などを通じて知ることができる。プロデュースによる社とのコラボ・ギターであった。

社とは、それまでソリッド系エレキギターでカスタム・モデルのリリースを重ねてきた蜜月関係ながら、アコースティック系となると“初”となる異色のリリースでもある。

その経緯を記すギター雑誌『』には、が描いたとされるスケッチ画が掲載されているが、小学生が書いた様な走り書き風の小さなイメージ画から、よくぞギターが出来たものだと感心するほどの仕上がりながら、この経緯には少なからず疑念がある。

何故なら、それら全ては社の後付けと思われるほどクリソツなギターが欧州19世紀ギターに存在するのである。加えて、ミュージシャンに欧州19世紀ギターの知識や興味関心があるとは・・・失礼ながら思えない。

現代ギターからすれば古くさいイメージはぬぐえぬ欧州19世紀ギターながら、現代でも充分通用するほどの天才肌ギター職人は存在する。

他ならぬフランスの天才ギターがそれであり、今回注目する社のギターは、このフランスの天才ギターの現代版たる社流儀の焼き直しと思われる。

もし、自身の得意な妄想通りであるならば、プロデュースも、が描いたとされるイメージ画も、全て社側が用意周到にお膳立てしていた宣伝素材となり、がどう関わっているのか、その実態はいまだ“謎”と言えよう。

社の商売とはそういうもの・・・と言われれば返す言葉もないが、ミュージシャンとアコースティックギターという構図には違和感を感じると同時に馴染めない世代も多いに違いない。

全ては社の周到に仕組まれた販促計画のもと生まれたかも知れぬギターの評価は、いかばかりか解らないが、愛用のギターかどうかさえも定かではない様だ。

一方で、フランスの天才ギターに着目されるギター製作筋は極めて少ない残念な現状が伺える。国内製作筋を見回せば、一様にアメリカ系ギターの研究&製作で余念がなく手一杯、というか視野にさえ映っていないであろう状況ばかりが透けて見えてくる。

未だごく一部の先見の明ある古楽器製作家筋にのみ託されている現状は実に残念でならないが、少なくとも現代でも充分研究にたる秘めた潜在能力と魅力とを内包する銘ギターである事だけは間違いないだろう。

ギター製作に携わる上での技量や経験とは異なる、創造する側の嗅覚や触覚にも似た「感性」や「資質」を問われるギター・・・とでも言うべきか。

こうした見識も現状の日本にあっては異端児扱いかもしれないが、少なくとも“アメリカ系ギターの研究&製作だけが全てではない”と日本の若きギター製作筋にはお伝えしたい。

それだけに、仮に社側がギターに着目し企画・製作された姿がギターであるとするならば、その目の付けどころは評価に値するものながら、何分怪しげな尾ひれがあれこれ付くだけにスンナリとその評価を受け入れるわけにもいかないだろう・・・。

※「」〜「」は、単なる表記順による略称です。

2011年8月28日(SUN
‘大安吉日’第五「談」・・・ 数年来の自身の懸念でもあるアコースティックギターの知識の連鎖たる存在が次々と消えつつある。今年2月の森平利男氏のみならず、実は自身の知り得ぬまま昨年にも“貴重な歴史”が幕を閉じていた。

これは何もギター産業界だけに限った話ではないが、その知識の連鎖を受け止める担い手もないまま、目の前に映る利益のみが優先される現実にあって、ギター業界に身を寄せ、活字で“禄(ろく)を食(は)む”側に出来ることは何もないのだろうか。

間に合うのか、間に合わぬのか・・・知識の連鎖は、ただただ切れてゆく・・・。

さて、2008年末の“田原良平宣言”以来、「田原良平」というギター・クリエーターをことさら紹介する機会もなかったが、実に数十年ぶりにギター専門誌で“田原 Jumbo”にスポットが当たった事は既に案内した通り。

今回は、掲載記事を訂正&補足する意味で“田原 Jumbo”の片鱗に触れてみたい。

「ギターとデザイン考学/誰も書かない田原良平」
上記専門誌からネット情報に至るまで、田原良平氏のギター製造に係る経歴として「全音出身」とだけ記されているのが現状です。

田原良平氏のギター製造の経歴があたかも「全音」からスタートしたかのような認識で記されている現状から大多数の方々に誤認が生じていることだろうが、事実はそうではない。

田原良平氏のギター製造に係る経歴を問えば、その歴史はさらに終戦後にまで遡ることになる。1946(昭和21)年に興した「日本弦楽器製作所」が原点となる。

同じく信州は諏訪湖周辺となる上伊那にあった「辰野木工(有)」でもほぼ同時期よりギター製造が始まるが、それは決して偶然ではなく、実は密接な関係が両社には存在するのである。

おそらくそうした事実関係を知り得る当事者ももうごく一部に限られる事だろう。

「辰野木工(有)」は、のちにギター製造がもとで内紛・分裂し、以後「林楽器製造(株):Gloria(グロリア)ギター」に対し「新興楽器製造(株):Swing(スウィング)ギター」を世に送り出す。

ちなみに、この「Gloria」も「Swing」も共に変なギターの作り方をしていて、つまり製造法など元は一緒という事だろうが、どうしたらこんな作り方になるのだろう?と首を傾げたくなる。可能であればこれら製造に関わった方々に直接話を伺ってみたいところだ。

自身の推測の一端として、バイオリン同様の「内型」を使用したのではないか、といったイメージもあるが、いまだ謎である。

いずれもノスタルジックな資料的価値以外なにもなさそうなギターではあるが、この件はいずれ機をあらため考証予定なので話を先に進めよう。

「日本弦楽器製作所」は後に名称や拠点を変えつつも、生産拠点となった伊那谷の高遠や岡谷市川岸といった諏訪湖周辺にギターの種を宿して行くことにもなるのですが、「林楽器製造(株)」同様、経営に行き詰まり「全音」の傘下に下るのである。

田原良平氏のギター経歴に関しては、現状は何故かこの全音傘下以降から一様に記されるのが何とも不思議でならないが、つまりはいずれかの情報の後追い発信が、脈絡もないまま繰り返されている可能性が高いと見て良いだろう。

田原良平氏を「信州ギターの祖」と仰ぐ言葉もある様ですが、あながち間違いとも言い難いし、「長野県下では随一の技術者」と看破していた森平利男氏の眼力も確かながら、そんな“田原 Jumbo”も第二次フォーク・ブーム下にあって極めてマイナーな存在でしかなかったのが実情である。

後に「全音」を退職し新たに立ち上げたのが、楽器用合板を製造する「日本プライ」である。「プライ」イコール「plywood(合板)」であるが、先の専門誌では「日本プライ」となっている。「プライス」イコール「価格」?みたいで何か響きがヘンです。

また、「芳野楽器」→「全音楽器」→「日本プライス」という経歴説明も、正確には「全音楽器」→「日本プライ」→「日本プライ(全音傘下)」→「芳野楽器(穂高楽器から改称)」という説明となるので、順序立てがかなり異なってます。

許容範囲として問題視しない、という自身のスタンスとは別に、情報を手にする対価(金銭)がともなう以上、ギター業界に身を寄せ、活字で“禄(ろく)を食(は)む”編集者には、もっと情報に敏感になれるだけの“質(クオリティー)”を身につけて欲しいと願うばかりです。

今回は田原良平氏に係る片鱗に僅かに触れただけですが、本稿以降は情報も少し様変わりしてゆくことだろう。

2011年7月24日(SUN
‘大安吉日’第四「談」・・・昨今の日本のフラットトップ系アコースティック・ギターのそのほとんどは、アメリカ系ギターの構造原理を忠実に受け継ぎ製造されている。それはルシアーと呼ばれる個人製作家においても同様である。

それらマーティンやギブソンでさえ創業当時からの血統を忠実に受け継いでいるならば、150年以上にも及ぶ伝統的構造原理があり、さらにそこから枝分かれした多様なギター文化がアメリカにはある。

自身はそんな150年以上にも及ぶ構造原理の中で、特に音響特性に大きく関与する構造部に少々異論がある。今日まで連綿と受け継がれている150年以上にも及ぶ伝統構造への初の提言となるかも知れない。

「ギターとデザイン考学/新説ブリッジ・サドル」
特に音響特性に大きく関与するとある構造部・・・とはブリッジであり、その構造原理にある。詳しくは「ブリッジとサドルの関係」である。

ブリッジおよびサドルは、それぞれ響板であるトップ(甲板)に弦振動を伝える重要な構造体である。

しかし、今日まで製造されるギター・ブリッジの構造上、「弦振動」を正しい「弦圧」として響板であるトップ(甲板)に伝える構造関係になっているかという観点で考察した場合、自身の見解は「NO」である。

下記の構造図を参照して頂きたい。

構造図(1)は、平面でとらえた現在のブリッジとサドルの構造であり、構造図(2)は、新たに提言する基礎となるブリッジとサドルの構造関係である。

この二つの構造関係の違いは、弦振動を正しい弦圧として響板であるトップ(甲板)に伝える構造関係になっているかという観点で考察した場合の“構造力学的なサドル角度の補正の違い”にある。

しかし、正確にはブリッジ・ピンを起点とし、サドル自体が弦振動を上下振動に変える作用点としての働きを考慮するならば、更なる帰結点は、構造図(3)から構造図(4)が、より正確な構造力学的補正関係と言える。

つまり「サドルは垂直に立てる」といった150年以上にも及ぶ従来の伝統的かつバイオリン属的構造原理ははたして論理的構造原理なのか、という新たな提言とともに、より的確な構造原理への提唱でもある。

150年以上にも及ぶ「サドルは垂直に立てる」伝統的構造原理をよそに、構造力学的分析を元にしたデッサン考案型『スラント・サドル』の是非を問うとともに、本稿による『スラント・サドル』が永き伝統への新たな波紋ともなる見識として根付くタネ蒔きとしたい。

余談となるが、戦後おびただしく登場する生ギターのほとんどのサドルは丸棒タイプであるが、この形式の構造原理であれば弦振動を正しい弦圧として響板であるトップ(甲板)に伝える構造力学的関係になっている。

戦前よりスペインやイタリア系ギターに見受けられるシンプルな構造原理ながら、まさに先人の単純かつ的確な知恵と言えるだろう。

※本稿は、管理者自身の数年前の論文『スラント・サドル』の一部引用ですが、その際の構造図は割愛致しました。

2011年7月18日(MON
‘大安吉日’第三「談」・・・震災復興問題で某党代表が苦言を呈していた。まだ、記憶に新しいと思うが、「バカ足すバカ足すバカは、やっぱりバカ」・・・。

恐らく日本の政治史に残る名言となる事だろうが、いろんな意味で心に響く実に耳の痛い言葉である。

「ギターとデザイン考学/ギター・デザイン・コンテスト」
ギター製造や販売に関わる企業側が、ギター製造の専門教育機関、いわゆるギター製造法を教え作り手を養成する場を設けるのは、「ESP」が1983年に開校した「日本ギター製作学院 」(※現・ESPギタークラフト・アカデミー)を嚆矢とし、最近ではモーリスことモリダイラまでもが「アコースティックギター製作学院」を開校している。

ネット上では、個々の孤軍奮闘・悪戦苦闘ぶりを伝える様々なギター製作サイトが開設され、今やギター製作は、かつての大手工場や中堅工房の独占的地位から、ルシアーを含め徐々に個々に拡散しつつあるというのが、ここ数年来の顕著な傾向でもある。

これらの傾向を分析するならば、既成メーカーが自社ブランドともなるオリジナリティを確立できていない現状がベースとなり、亜流品が乱立するなか特にソリッド・エレキ系などを筆頭に、ファクトリー・メイドのギターが個人の自作ギターに対抗できる要素は、機械化による量産化・効率化といったコスト以外ないほど拮抗している、という実態が看破できる。

10年前と比べれば、現状は個人がギター製作をするに足る条件や環境が大きく変化している。その気になりさえすれば、ギター製作自体はさぼど難しいものではない。

“商品”となると話は別ですが、自身も脈がありそうなごく一部の方には、そんなにギター収集するくらいなら自分でギターを作った方が面白いヨ・・・と密かに勧めています。

さて、そんな中、ギター製造メーカーが優れた発想を公募する「ギター・デザイン・コンテスト」の類が音楽雑誌等で紹介されている。「ESP」はもとより最近では「K.ヤイリ」がコンテスト形式のギター・デザインの公募を始めている。

これらギター・デザイン・コンテストの意味を問うならば・・・話はかなり長くなるので敢えて一言に凝縮すれば、それが製作現場の実情なのだろう。

自身の長年の“感”で申せば、デザインとは“天性の資質を具現化する業”・・・ゆえに「ギター・デザイン・コンテスト」も“準商品”や“準商品的アイディア”が入手できる可能性を否定はしませんが、さほど効果はないと断言できるほど、その“差”は実は歴然としているものである。

昨年、世界の頂点を極めつつあるなか非業の死を遂げた坂下ギターの坂下拓氏が確か同じ様な事を語っていたと自身は記憶しているが、「1mmの線の違いで別の楽器になる・・・」つまり「1mmの線の誤差の重み」を解らぬ側には通用しない“研ぎ澄まされた感性の差”と言っても過言ではないだろう。

言いかえれば、「1mmの線の誤差の重み」を解る側のみが、新時代の幕開けとなる松明を灯せるのである・・・時代を超え心に響くプロダクト・デザインに共通する要素であもある。

そんな坂下ギターの更なる進化をもはや拝見できぬのは、本当に残念でならない。

2011年6月26日(SUN
さきの「ギターとデザイン考学/新説ヤマハ「FG」」より二か月が過ぎ、偶然ながら本日‘大安吉日’つながりとなり候。今後は計画的‘大安吉日’つながりなんてのも悪くない趣向かも知れません。

さて、その実験的反響はいかばかりか判らないが、若きヤマハ開発陣の核心的“秘め事”だったのだろうと想像しています。

発売以来、情報が溢れんばかりのネット社会たる今日に至る約半世紀もの永きにわたり、誰一人気付かず着目されずに来れたことは、おそらくはヤマハにとっての“成功”を意味するのだろう。

ヤマハ独自と囁かれていた“非対称Xブレーシング”構造も、遙か十数年前より「YAMAKI(ヤマキ)」製品への導入事実が当サイトを通じ公表されなければ、同じようにヤマハ開発陣の“秘め事”はいまだ続いていたかも知れない。

2004年春より約20年という長きに渡りフラッグシップ・モデルに採用され続けてきた非対称Xブレーシングの採用を止めたヤマハ開発陣の背景に何があったかは知る由もないが、さりとて自身の想像の域を出るものでもないだろう。

実は、上記「ギターとデザイン考学/新説ヤマハ「FG」」以外にも「ギターとデザイン考学/新説ヤマハ「SG」も執筆済みで、「FG」同様にヤマハ開発陣の想起原型たるデザイン・コンセプトは分析済みある。

ともに数年前に執筆済みの自身にとっては古いタネながら、いずれも本邦初。であれば意義あるものになるかも知れないので‘大安吉日’つながりで折を見て実験公開してみたい。

ヤマハ「FG」に触れたついでとなるが、今回は予定外ながら「赤ラベル」以前の通称「ライトグリーンラベル」に触れてみようと思う。

いまだ情報が錯綜し、論拠となる情報も“客観的常識”を提示せぬまま何か漠然としたマニアックな対象と化しているかの印象をおぼえるからである。

ギターとデザイン考学/説ヤマハ「FG」ライトグリーンラベル
事実関係は不明ながら、ヤマハ・フォークギター「FG」がリリースされた1966年10月、最初期型として「ライトグリーンラベル」があり、製造が開始された“初期3か月もの間は単板で精造されていた”らしい・・・。

そもそもその根拠たる事実関係は不明ながら、これを受け単板仕様の「FG-180/ライトグリーンラベル」を血眼で探しているコレクターやマニア筋もおられることだろうが、自身には何とも合点のいかぬ話である。

まず、ヤマハが同社初となるフォークギター「FG-180/FG-150」をリリースされる以前、すでに当時一世を風靡し人気商品であったモリダイラ楽器の取扱商品で長野楽器が製造していた「HOTAKA(ホタカ)」というウェスタンギターがあった。そして、この事実を知らない方々は意外と多い。
(※ウェスタンギターもフォークギターも同義語ながら、当時はウェスタンギターの呼称が一般的だった)

当時、この(有)長野楽器製作所には、川瀬喜一郎氏(カワセ楽器)、森平利男氏(モリダイラ楽器)が取締役として参画し、時代のニーズたる注目商品“ウェスタンギター”開発じ尽力し、そのブランド「HOTAKA(ホタカ)」は、“正に一世を風靡した”ブランドにまでなっていた。

HOTAKA(ホタカ)」以前の前身ブランド「HODAKA(ホダカ)」のリリース時期は正確には不明ながら、ヤマハより先立つこと一年余の1965年秋の商戦をターゲットとした9月〜10月頃であったと推測しています。

この「HOTAKA(ホタカ)」の最上位機種(甲板:単板、側/裏板:合板)の翌1966年春頃の販売価格は、「FG-180」価格など比べものにならぬ何と2万2,000円である!!

ギターはいつの時代も大卒初任給的な分析を目にするが、「HOTAKA」最上位機種に至ってはまさに当時の初任給的高価な楽器であった。

もし、ヤマハがこの「HOTAKA(ホタカ)」最上位機種と同仕様でフォークギターを開発・発売するとなれば、開発費、広告・宣伝費等に加えブランド料が加算され、おそらくは3万円前後の価格設定になっていたハズである。

型番がおよそ販売価格を示すのであれば、そもそも単板仕様「FG-180/ライトグリーンラベル」など国内マーケットに出荷される商品として常識的にあり得ないのである。

しかし、同社初となるフォークギター「FG」開発の工程で仕様詳細も具体化する中、単板仕様「FG」を前提に開発される過程で、最終的により普及に見合う合板仕様「FG」に仕様変更されたと見るべきだろうし、必然的に単板仕様「FG」は存在するハズである。

では、そんなマニア垂涎の単板仕様「FG」とは、おそらく・・・

同1966年7月10日〜14日にかけて行われた「第65回全米ミュージック・トレードショー」(※後のNAMMショー)でサンプル展示され、アメリカのディーラーやバイヤーにわずかに配られた程度の数が精造された可能性があり、それを前提とすれば1ロット程度の単板仕様「FG」が精造されたに過ぎないと見て良いだろう。

つまり、ヤマハ初となるフォークギター「FG-180/FG-150」の国内販売は1966年10月1日であるが、製品自体は「第65回全米ミュージック・トレードショー」開催の1966年7月10日以前にすでに完成していたのである。

仮に製造ラインに移行した“初期3か月もの間は単板で精造されていた”のが事実なら、出荷台数は1ロット程度などでは到底済まなくなる。少なくともヤマハと特約店契約下の全国の楽器店店頭にくまなく行き届く数百台もの製造が可能だろう。

おそらくその実態は“開発期間を含めた3か月程度”を意味するものであろうし、前回考証したように“エレクトリックRickenbacker”がデザイン・コンセプトとなれば、以後「FG」開発はわりと短期間で具体化されたであろう実態までもが見えてくる。

また、ヤマハが一連のライトミュージック商品を出品し、当時まだ年に一度限りの全米ミュージック・トレードショーを通じ、米国関係者から高い評価を引き出したのは事実である。

最後に、ヤマハにひとつ提唱したいです・・・そろそろ事実関係を調査・整理して、これまでの『社史』とは一線を画した、自社ギターの歴史を「形」にされてみてはいかがでしょうか。

例えば、そもそも鈴木バイオリンの鈴木政吉翁との“密約”でギターを含む弦楽器類を製造できなかったとされるヤマハが、なぜギターを製造できるようになったのか・・・。

さて、あるがままの事実はいずこ・・・あるがまま、あるがまま。

2011年4月17日(SUN
ゴールデンウィークを控え、本日‘大安吉日’なれば実験情報を発信しようと思います。すべてが本邦初となれば、新たな見識として根付くタネ蒔きとしたい。

「ギターとデザイン考/新説ヤマハ「FG」」
ヤマハが初のフォークギター開発に着手し、オリジナリティ精神という企業風土のなか試行錯誤の末に生まれた「FG-180」「FG-150」。中でも「赤ラベル」の代名詞たる「FG-180」は、時を経て再燃した90年代第二次フォークギター・ブームの火付け役あるいは幾多の話題性とともに牽引役を担い、その恩恵は計り知れぬものがあるだろう。

さて、「赤ラベル」再燃とともにヤマハ独自の妙なるフォルムに幾多の賛辞こそあれ、工業デザイン学的分析・検証・考証らしき知的痕跡はない。ゆえに今日まで神秘的ベールに包まれるがごとく表現でしかいまだ語り得ない。

おそらくその訳には大きな落とし穴がある。アコースティック・ギターに広く精通する見識者ほど陥る落とし穴である。

しかし、そのフォルムの稜線を辿り眺めれば、琴線に触れ糸口を探し出すのは決して難しい事ではない。閃きとともに浮かび上がるフォルムがいかんせん“意外”なのですが、検証・考証は以下のごとく極めて“単純”である。

植田:意匠課の高梨さんとか長谷川さんのセンスだね。ともかくMartinとかGibsonを並べてあーでもない、こーでもないとやっていたからね。真似ではいけない、独自のものを作らなくてはと云う気持ちだった。結局最後まで揉めたね。(※『JAPAN VINTAGE acoustic VOL.1』The 証言/植田秀男氏談を一部引用)

MartinでもGibsonでもない独自フォルムを模索していたんだなぁ〜、と感心しているだけでは重要ポイントを見過ごしてしまう。この意匠課(デザインを考える部署)の高梨氏と長谷川氏の両氏は、実はヤマハ・エレキギターの開発メンバーでもある。

ともに‘ヤマハ初’となるフォークギターとエレキギターの開発は、ほぼ同時期からスタートしている。「赤ラベル」同様マニア垂涎の的となっている「ブルー・ジーンズ・カスタム」も、開発時期のみならずデザインを決定づけるキー・パーソンまでもが実は同じ構図なのだ。

別な角度で「ブルー・ジーンズ・カスタム」の開発秘話を少々紐解いてみよう。

高梨:私は、一番最初のSG-1の時は、バーンズに物凄く影響されたんですよ。(省略)で、この時影響されたのは、リッケンバッカーなんですよ。(※『Guitar Graphic Vol.2』ヤマハ・ブルー・ジーンズ・カスタム開発者座談会/高梨宏孝氏談を一部引用)

さて、そこで単刀直入に新説となる結論から言わせてもらうと・・・

「赤ラベル」こと「FG-180」のフォルム原型は、実はアコースティック・ギターではない。“エレクトリックRickenbacker”なのである。

さらに分析・検証すれば、当時日本の音楽シーンを席巻しつつあったビートルズのジョン・レノンの使用していたRickenbacker#325系フォルムである。

ヤマハ独自とおぼしきヘッドストックのデザインも、Rickenbackerのヘッドストックを反転ミラーリングして重ね合わせれば、おなじみのY型曲線フォルムになる。

ヘッドストックの曲線やオープン・ギヤのペグ、小さなドット・ポジションなど類似点は極めて多い。しかし、その最たるは実はネックのスケールではないだろうか。

日本人(東洋人)に合わせた・・・的な従来の単調なFG考証ではなく、ベンチャーズや寺内武に代表されるギター・インスト・オンリーのミュージック・シーンから、いよいよ歌い演奏するボーカル系バンド「ビートルズ」旋風と共に、彼等の使用するショートスケールのRickenbackerギターやHofnerベースは、同じように歌い演奏するフォーク・シンガーにも必要な“仕様”と、若きヤマハ開発陣には映ったのではないだろうか。

少なくともバカデカイ「FG-180」は、どう見ても日本人(東洋人)に合わせたボディ・サイズには映らないので、従来の単調なFG考証だけでは“何か”が物足りないのである。

RickenbackerのフォルムにMartinでもGibsonでもないHarmonyという米国量産系ギターを加味するとよりパーフェクトだろうか。60年代、Harmony製を手本にした生ギターが大量に輸出されていた日本のお家事情からすれば、輸出目的の製品開発には欠かせぬ要素と言えるだろう。

FG-150や高級手工品のFG-1500、FG-2000、その後のLシリーズ等々ヤマハ・アコースティック・ギター群を精査して行くと、全てのフォルムの原型に実はRickenbackerのなにがしかのモデル・フォルムのラインがくっきりと浮かび上がり重なってくる。

かくしてアコースティック畑の見識者ほど実は見えぬフォルムの原型も、エレキギターの少々の見識と工業デザイン的感性を駆使し視点を切り替えるだけで、わずかな隙間から実体が鮮明に浮かび上がってくる。

高梨氏は、後にデザイン研究所長にまで上りつめたヤマハを代表する工業デザイナーですが、氏は少なくともヤマハ初となるフォークギターのフォルムの原型を熟知していたハズである。MartinでもGibsonでもなく、実は“エレクトリックRickenbacker”だったと!

であるならば、ヤマハ・アコースティック・ギター群は、その誕生以来いまだエレクトリックRickenbackerを標榜しその呪縛から抜け出せぬまま新たな製品を打ち出せずにいる。

冒頭引用した植田氏は、さらに最後にこう結んでいる。

植田:1966年の発売から数えると、もうそんなになりますか。感無量ですね。嬉しいです。もしかしたら50周年、60周年と続くのでしょうかね(笑)。でも、もうそろそろFGを変えなくてはいけないかも知れませんよ。」(※『JAPAN VINTAGE acoustic VOL.1』The 証言/植田秀男氏談を一部引用)

当時「FG」開発の一端を担いフォルムの図面化を担ったであろう植田氏であれば、自身の考証事など全てお見通しだろう。かつてのヤマハ社員として敢えて核心を語らずして、その代わり、そろそろRickenbackerのマネ事はやめて新しいものを打ち出してこそヤマハの企業精神なんじゃない?とエールを送っている様に聞こえてきはしないだろうか。

少なくとも本稿よりベールを脱いだであろうヤマハ・アコースティック・ギター群。見方も一変すれば、問われるのはヤマハ自身の今後の新たなアコースティック・ギター像たる新製品となる。植田氏ではないが、真のヤマハ・スピリッツが問われる中での次なるを期待しよう。

さて、あるがままの事実はいずこ・・・あるがまま、あるがまま・・・whisper words of wisdom, let it be.

2011年4月10日(SUN
昨年蒔いたタネがらみか、スペインやイタリアの名門ブランドを語り幅からぬ物件の姿が何やら消えたように思いますが、気のせいでしょうか。

いわゆる無知につけこんだ売り手側のエゴがむき出しになっている点では、例のmosrite(モズライト)ギターにも同じ土壌があるようで、フィルモア楽器や黒雲製作所が話題となって久しいですが、エレキの話題は馴染まない方々も多いかも知れませんね。

今年に入り鈴木ヴァイオリンの始祖・鈴木政吉翁の甥に名たる山田健三氏のギターを入手。ヴァイオリンとは異なりギターは認知されてないのか意外な価格でした。

では、どういったギターかを含め情報整理中。構想予定の『絃楽器解体眞論』は、なにも“田原良平”を語るものではなく、日本のギター史全体をも含め再構築するのがねらいでもある・・・ゆえ。

しかし、構築情報に自己満足すればその時点で終わる事も否定しませんが、少なくとも実験を兼ねた当欄「あとがき」はしばし続けてみようと思います。

そういえばシンコー・ミュージック・ムックの『Acoustic Guitar Book』No.32では、わずか2ページながら“田原 Jumbo”が紹介されていました。数十年ぶりに専門誌でスポットが当たった点では評価したいです。

しかしながら記事の構成が良くないです。歴史認識に間違いや誤解があり(許容範囲として問題視しませんが)、問題は、それら文責をSmi工房/鷲見英一氏に押し着けているかのような記事構成にある。

本来ならインタビュー・構成を担うGimmix/今野政司氏が基礎的情報を調査&提示された上で、鷲見氏からそれら以外の身近な情報を引き出すのが本来の流れだろうが、あたかもインタビュー側が文責を放棄したかの様な構成が・・・気になりました。

話は変わりますが、モリダイラ楽器の創設者である森平利男氏が逝去されていたことを偶然知り驚いています。当欄でも何度か話題としてきた人物。

ご高齢者でればやむなきことではありますが、日本ギター史の黎明期を紐解く上でのキー・パーソンと位置づけていただけに、自身の願いでもある夢の一つは、風に舞う桜の花弁のごとくハラハラと・・・儚くも消えた現実を前に、ただただ・・・・切ないです。

2011年4月3日(SUN
新年らしきを書き込もうと思いつつ3月を迎えるに至り、ふと気がつけば、当サイト公式リリースより10年目に突入する・・・先人達のサイトも健在なれば、後発の関連サイトを含め意義ある節目を迎えつつあるようです。

翌2012年3月3日の当サイト「開設10周年」へのロードマップらしきを意識し始めた矢先に“それ”は突然起こりました。

以来、少し落ち着きを取り持つしつつもあり、偶然ながら大震災よりちょうど1か月目にして今年初の「あとがき」となりました。

ここ東京にあって計画停電の影響はあちこちありながらも、この僅かひと月の間に自身の心が大きく揺れ動いていました・・・。

その先に見据え願うものは、国旗がごとく太陽に愛される日イズル国“日ノ本ニッポン”であり、世界を照らす光としての具現者たる姿としての“日本人”の姿・・・ではありますが、自身にとって2011年はどうなるのかではなく、改めてどうしたいかを問われる一年となりそうです。


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