ヤマキに関する様々な総体的疑問に答える質疑応答形式で、1つ1つひもときながらヤマキ像に迫ろうというものです。多角的に質問事項を想定し、興味深い事柄は随時追加していきます。

質疑応答の内容に、独断と偏見でカルト度合いを「」の5段階表記しました。「」表記の多いもの程、難度・専門度も高いといった、あくまで目安的なものです。(解答内容の不備な点は、お気づきの情報・解答等をお寄せ下されば幸いです。)

●カルトQ&A VOL.1(No.01〜)
●カルトQ&A VOL.2(No.11〜)
●カルトQ&A VOL.3(No.21〜)
●カルトQ&A 
VOL.4(No.31〜)
●カルトQ&A VOL.6(No.51〜)
●カルトQ&A VOL.7(No.61〜)
●カルトQ&A VOL.8(No.71〜)
●カルトQ&A VOL.9(No.81〜)

No.41/★★★★
ヤマキ楽器で製造していたCanyon(グランド・キャニオン)ブランドに関する詳細を教えて下さい。


ある程度の推測を含めてのご返答になりますが・・・まず、Canyon(グランド・キャニオン)はヤマキ楽器製ではなく、正式には「スガノ楽器」製造のアコースティック・ギターです。Canyonは当時直販方式で急速にシェアを広げていた「トミー商会」からリリースされていた「スガノ楽器」製造によるブランドです。

ただし、全てのCanyon製品がスガノ楽器で製造されていたかと言うと、ヤマキ楽器ならではの独特なシリアルナンバーをもつ製品がミドルクラス相当の製品(トミー商会取扱製品中では上級モデル)に見られることから、恐らくトップ単板仕様以上の製品に関してはヤマキ楽器が製造していたと思われます。ヤマキ「W-500」とほぼ同等製品が「GW650」としてトミー商会のトムソン・ブランドからリリースされていたことも関連事項として上げられるでしょう。
(※GW-650はすがの楽器製と思われる。→質疑応答No.67)

スガノ楽器は、Pro Martin(プロ・マーチン)ブランドの製造元ながら、のちに設立に際しての販売親元である「東京楽器」の横領事件等にまつわる倒産により販売経路に苦慮し、トミー商会に落ち着いた経緯があります。2割〜3割引きは当たり前といった直販方式の強みを活かしたトミー商会への供給メーカーを担い、それまでの得意分野である普及価格帯に特化したPro MartinとCanyonの両製品を供給しつつも、ミドルクラスの製品はヤマキ楽器がサポートしていたのではないでしょうか。

この後、Pro Martinは名工・田原良平(ジャンボ・ブランドの田原楽器創設者)氏の技術指導を仰ぎ、高級手工品をラインナップさせたハンドクラフト・シリーズを打ち出すまでに急成長を遂げますが、田原楽器・田原良平氏にしてもヤマキ楽器・寺平一幸氏にしても、スガノ楽器の原田荘一郎氏とは全音ギター製作所時代の同窓であるという絆に結ばれていればこその信頼関係である様に思えます。

【追記】Canyon W-40、W-50等ヤマキ製かの問合せが多いですが、ヤマキのブランド・スタンプがない限り、質疑応答No.67でも記載したセンター・ストリップ部の形状が判断の目安・参考となるかも知れません。ヤマキ系=かまぼこ状、すがの系=すみ落とし形状。

No.42/★★★
高級手工品を作りはじめたころの仕様でタテゴロが細いタイプのものがあるようですね?


画像に見られるような
細いタテゴロの仕様期は、当サイト掲載の'73年6月21日発行版のカタログの高級手工クラスにも見られます。

おそらく上記カタログにもあるような「F-1100、F-1150、F-1200」等の高級手工品の試作あるいは製作が始まった'72後期ごろから'73年中期ごろまでの極めて短期的仕様と思われ、過渡期的ロゴ仕様と言えると思います。

掲載画像は、'73年3月製造のNo.1100第1号品です。

No.43/★★★
ヤマキ・カタログにはダイオン以外のクレジットとして「グレート・ミュージック」という名称が記載されているものがありますが、この「グレート・ミュージック」とはどういう組織でダイオンとはどういう関係なのでしょうか?


グレート・ミュージックとは、ダイオンの社長・寺平太一氏が設立した輸出業務専門商社という位置付けで、主にダイオン・グループ(ダイオン、ヤマキ、信濃、八潮、チャキ、トチギ楽器等)製品の輸出を手掛けていた商社で、1972年5月15日発足しました。

寺平太一氏自身は会長となり、主要業務は社長・広瀬長裕氏が担当。他に寺平一幸(ヤマキ楽器)志村七男人(信濃楽器)河西康夫(ダイオン)町田宇三郎(八潮楽器)等が取締役を務めていた様です。

1977年秋には寺平太一氏の令息・博次(ひろつぐ)氏が2年間のカナダ留学から帰国し、これをもってダイオン自社内に貿易部を設立し、博次氏は貿易部長に就任。これを機にグレート・ミュージックは清算されたようで、社長の広瀬氏をそのままに以降独立した外部商社ながら広くダイオン製品も取り扱う楽器商社であった様です。

No.44/★★★★
ヤマキ・ギターの中で資料&詳細の不明モデル「Y-40D、Y-50D、Y-60D、Y-70D」の内の1台を所有しています。指板ポジションにはメイプル材の三角形をあしらい全体的にウッディ感覚あふれるモデルですが、解る範囲でこの一連のモデルの詳細を教えて下さい。


ご質問のモデル「WOODCRAFT SERIES」に関するリリース情報は幾多の関連資料中見当たらないようで、独特のコンセプト・モデルであるだけに、やや異色の存在です。

その理由として、おそらくこの4機種はそもそも米国ワッシュバーン社へのOEMモデルであるという事に起因するのかも知れません。

ダイオンの米国ワッシュバーン社へのOEM供給による対米輸出は1972年頃から始まったようで、ワッシュバーン・ブランド製品のヨーロッパ市場輸出は1979年のフランクフルトメッセ前後から始まったようです。1972年というのはダイオン社長・寺平氏がアメリカに直接市場開拓に出向いていた時期でもあり、米国ハープトーン社の製品もその一例として挙げられるように、同時期からのッシュバーン社との関係も頷けるものです。

1978年頃ワッシュバーン社は、自国へのOEM製品供給から更に同社ブランドの日本国内販売を希望するようになり、その最初の提携先として、同1978年4月頃、帝国発明社(名古屋)からワッシュバーン・ブランドのフォークギター7機種(寺田楽器)が発売されましたが、そのいずれの機種もごく普通のマーティン・コピーモデルでした。

そしてこの約1年後の1979年5月頃、中井楽器の同社オリジナル・ブランド「ジャガード」から新シリーズ10機種(寺田楽器製造)がリリースされますが、このモデルは今回取り上げるヤマキ「Y-40D、Y-50D、Y-60D、Y-70D」とそのコンセプト・仕様・外観が同一のモデルでありながら、このわずか数ヶ月後の中井楽器倒産により今もって市場に見ない極めてレアなモデルとなっています。

ダイオンも1979年2月のフランクフルトメッセより日本国内販売を検討し、ワッシュバーン社と完全業務提携を結んでいたこともあり、同年10月開催「'79楽器フェア」を機に、それまでのダイオン&ヤマキ楽器供給によるワッシュバーン・ブランドのフォーク&ウェスタンギター23機種の日本国内発売が開始されます。

実際には23機種のうち数機種が小売店に展示販売されていたものと思われ、日本国内販売に対するダイオンへのノルマは一切なかったと言うのは、興味深い条件であると思います。

総論としては、「'79楽器フェア」以降ヤマキ・モデルとの重複発売は想像しがたい事もあり、ヤマキ「Y-40D、Y-50D、Y-60D、Y-70D」は、MAXシリーズ・リリース期と同時期の1978年9月頃から1979年9月頃までの期間、対米輸出ワッシュバーン仕様モデルの一部を日本国内向けにヤマキ・ブランドでリリースされたものと思われます。(※1979年上半期にはマックス、クラフトシリーズの中級品がよく動いた旨のダイオン・コメントも見受けられる。)

あえて蛇足を付け加えるなら、ワッシュバーン社との関係上、問題を回避する意味で業界誌に製品リリース情報の掲載をせず国内向けカタログのみ用意し販売していた可能性も推測できますが、両社の契約の詳細が不明である以上単なる憶測に過ぎません。

ワッシュバーン社のモデルと比較すると、ヤマキ「Y-40D、Y-50D、Y-60D、Y-70D」は、ワッシュバーン「D-60SW、D-62SW、D-64SW、D-66SW」に相当するであろうと思われますが、仕様の詳細は若干異なるようです。(マホガニー←→オバンコールなど)

詳細は「カタログ資料」欄で貴重なカタログ(MONTYさん投稿:1979年)を掲載しております。その中の「WOODCRAFT SERIES」を参照下さい。(※「WOODCRAFT SERIES」に関する唯一の情報と思われます。)

さて、ここで重要と思われるのは、極めて短期間とはいえヤマキ楽器と寺田楽器の2社により同等モデルが製造されていたと思われる点です。上記に挙げたモデルのデザイン&コンセプト等はやはりワッシュバーン社によるものであるからこそ異なる2社メーカーで製造できたものと推測できますが、明確な情報がないというのが現状です。

No.45/★★★
'70年代後期にリリースされたヤマキ・カスタムオーダー・シリーズに関して、そのリリース時期やその他詳細について教えて下さい。


ヤマキ・カスタムオーダー・シリーズは、1977年10月に開催された楽器の祭典・東京楽器フェアに発表されたもので、マーティンのフル・コピー・シリーズとして受註生産をするプロジェクトとしてプレ・リリースされたものです。

この際には、後のAタイプ(単板)・Bタイプ(合板)の区別はなく、むしろAタイプに相当する単板規格としてプロジェクトされたものと思われ、Aタイプ・Bタイプのシリーズ化を正式決定したのは、おそらく情報としてのカタログ・リリースを検討した年末頃と思われます。

同時期の「楽器フェア」以降12月期までの短期間に製造されたものはAタイプ・Bタイプの区別のない実質Aタイプ(単板)相当品が見受けられますので、当初のプロジェクト通り単板規格として先行製造されていた状況がうかがえます。

恐らくは1978年新春向けのカタログ・リリースに併せ、正式にAタイプ(単板)・Bタイプ(合板)とシリーズ内容に幅をもたせ、前例のない大胆かつ柔軟にカスタム・オーダーに対応するように調整変更されたものと思われます。

こうした製品群のリリースには、同・楽器フェアで鈴木バイオリン製造株式会社から「Troubadour(トルバドゥー)」シリースが発表されたように、同時期に共通した背景・要素が伺えます。

またその前提として、エレキギターのカスタムオーダーを表明するメーカーやブランド、製品が増えつつあるエレキギター・マーケットの変化というのも見逃せません。

ヤマハが1975年末より30万円もの「Lシリーズ」4機種に限定してスタートさせたオリジナル・カスタムモデルのシステムとは若干異なりますが、このヤマハ以降(個人的な特注製作とは別に)正規にカスタムオーダー・システムを表明したアコースティック・メーカーは、ダイオン&ヤマキ楽器が最初の試みであった点は、そのオーダー価格帯の柔軟性という点でも特筆すべきことであったと言えるでしょう。

楽器フェア後の年末に向けて、マーティン・ニューヨーク・モデル相当の「Y-O16NY/A」「Y-O16NY/B」、OO21モデル相当の「Y-OO21/A」「Y-OO21/B」がリリースされ、これに続き翌1978年3月頃には、D-28S相当の「Y-D28S/A」がリリースされ、基本的には材質の全仕様に関してオーダーが可能であった様です。

No.46/★★★
ブレーシング構造でスキャロップド・ブレイシングを導入している、または類似構造のヤマキ製品はあるのでしょうか?


ヤマキ・ギターにあってスキャロップド・ブレイシングを導入したと資料明記されている唯一のモデルが実は存在します。

それは「THE YEAR シリーズ」の最初のモデルに当たる「The '78」で、“スカラップト・ブレイシング”と明記されています。

この「THE YEAR シリーズ」の特徴は、ブラス・ナット&ブリッジにあり、これらの仕様から鳴りを引き出す手法として“スカラップト・ブレイシング”が導入されたのかも知れません。

以降、「The '79」「The '80」と引き続き“スカラップト・ブレイシング”が導入されたのかと言うと、どうやらそうでもなく、特に投稿画像情報の「The '80」を拝見する限り、スカラップト・ブレイシングとは異なる形でブレイシングの軽量化が試みられている様ですので、厳密に“スカラップト・ブレイシング”モデルと言えば、唯一「The '78」が該当することになります。

その他、興味深い点として、同じく投稿画像にあるワッシュバーン社OEM同等モデルでもあった「Y70D(12弦)」やその他「Y60D」にも“スカラップト・ブレイシング”が施されているとのレポートも届いており、共に「The '78」とリリース時期が同じ事から、異なるモデルながら影響しあう関係でったと推測されます。

No.47/★★
1980年代以降はダイオンを打ち出したアコースティック・ギターにとって変わられますが、これらもすべてヤマキ楽器で製造されていたものでしょうか。


1980年を境に、ヘッド全面に「Yamaki」と銘打たれた製品は「YW」「YF」「YB」のいずれかに統合され、その他旧ヤマキ・モデルおよび'80年以降の新ダイオン・モデルに関しては、ボディ内部ならびにヘッド裏側への表記が全て「Daion」に変更され、名実ともにダイオン・ギターが登場することになります。

しかし、ダイオン・ギターであってもヤマキ楽器で製造されており、'80年以降登場するエレアコに至ってもアコースティック製品はヤマキ楽器で製造されています。

質疑応答No.40にある信濃楽器との分業体制ですが、同時期アコースティック製品の需要の落ち込みに加え、クラシックギターの需要生産比率はさらに落ち込んでおり、ヤマキ楽器とは対照的にその依存度・信濃楽器の分業比率は極端に落ち込んでいたであろうと思われます。

ダイオン・ブランドへの移行は確かに1980年から始まりましたが、別な観点から捉えるなら1978年の2年まえから既にダイオン・ブランドへの移行が始まっていたと考えられます。

その製品第一弾が1978年から始まった「THE YEAR シリーズ」であり、ヘッド全面からブランド・ネームとしての「Yamaki」が消え、変わって「Y」と「バッファロー」を象徴するかの象形文字(柄)のみとなり、以降ブランド・ネームとしての「Yamaki」が復活することはなく、ヤマキとダイオンとの関係に変化が生じたであろう象徴的な側面も含まれている様に想像するところです。

No.48/★★★★★
ヤマキ・ギターの手工高級機種であるF-1000、F-1150、F-1200の中でも最上位機種であるF-1200に興味があります。当時、どの程度生産されたものなのか、その他、当機に関することを取りあげて下さい。


手工高級品として登場した1000番台の3機種、とりわけその最上位機種である「F-1200」(定価20万円)は多くのギター愛好家・コレクターにとって興味の尽きない製品かも知れませんが、ギター市場に検体としての関連情報が見あたらない不詳モデルとも言えそうです。

まず最初に資料的検証として、この手工高級品3機種のうち「F-1100」が1973年初頭に登場し、同時期の他の資料中には「F-1100」「F-1150」の2機種が登場しますが「F-1200」の品番はどこにも見受けられません。

つぎに1973年6月頃になると、当サイト『カタログ資料』の1973年6月版のダイオン総合カタログ中に「F-1200」が、同時期の他の資料には20万円と明記された存在が明記される様になります。

以降、1973年9月頃のダイオン・カタログにも「F-1200」が記載さ、「F-1100」「F-1150」「F-1200」の3機種は資料あるいはカタログ上不動の存在となります。

さて、推測的総論になりますが、「F-1200」は1973年中期に後から製品としてカタログに加わったモデルであると同時に、単にカタログ的に存在したモデル、言い換えれば「F-1100」「F-1150」とは異なり受注生産に近いモデルであったと推測されます。

それを裏付ける3つの要素として・・・
1)1973年6月版に登場する手工高級品3機種の1モデル「F-1200」の画像掲載はなく、ギターヘッドにトラスロッド・カバーのある高級モデルとおぼしきは、1972年仕様のF-170あるいはF-180であり、前年手工モデルをそのままカタログ掲載したものと推測される。

2)1973年9月頃のダイオン・カタログ中、最高級フラッグシップ・モデル「F-1200」にも拘わらず「F-1150」が写真掲載されている点から、翌10月開催の「'73 楽器フェア」展示用に向け製造されたであろう「F-1200」は、カタログ発行のズレを考慮するなら7月頃まだ製造されていない、あるいは秋の商戦に向けて製造が着手され始めたであろうと推測される。

3)「F-1200」が、ギター市場に見受けられない。

これらの観点から「F-1200」は、受注生産的に型番・仕様をカタログ掲載していた、あるいは「'73 楽器フェア」やそれ以降のダイオン・カタログに写真掲載するため製造された可能性があり、仮に楽器店展示販売用に製造されていたとしても、ダイオンの有力販売地域である大阪、京都、神戸の一部の有力楽器店向けに初期ロット製造されただけのモデルであった可能性が含まれます。

いずれにせよ多くのメーカー&ブランドでの高額な手工最上級品の多くは、カタログ掲載用として製造された程度で、需要を含め実質オーダー品相当であったのが実情のようです。

No.49/★★★★
ダイオン倒産やその経緯に関する詳細を解る範囲で教えて下さい。


ダイオンはその設立以降から「弦楽器のダイオン」と称されるほど、アコースティック色の強い楽器商社であり、そのアコースティック製品のブーム終焉を受けての倒産であると同時に、オリジナリティを生命線とした打開策の結末とも言えるかも知れません。

さて、70年代後半に向かって徐々にアコースティック製品の需要が落ち込んでいく時期は、各社様々な企業努力に努めていた時期でもあるでしょう。しかし1980年から82年にかけてのたった2年間で需要が半減する急激な需要低下現象は、1967年から69年にかけてエレキギター・メーカーが軒並み倒産の憂き目を味わった需要低下と全く同じ現象で、多少異にしているのはエレキギターの場合は急激に需要の増加・減少の波が押し寄せたことに対し、アコースティックギターは長きに渡り徐々に需要が落ちながらも最後に大きく減少したという点でしょう。

ダイオンは新たな市場開拓のためにエレキギターの製造・開発に取り組み始めますが、これはアコースティックの落ち込みをカバー出来るだけの優れた才能を開花させています。自身の感触としてはヤマキ楽器の製品供給が滞った1982〜83年以降でも、需要が緩やかに延びているエレキギターをベースにダイオン独自の優れた製品群を企業規模を多少縮小しながらも少なからず展開していけたのではないかと想像しています。

ダイオン倒産の背景には、当時ダイオンが日本代理店として一手に販売拡張していたアメリカのピービー製品があるのでは?と推測しています。当時ダイオンはピービー・アンプに始まり比較的高額なPA製品に至るまで広く取り扱っていますが、このピービーも1984年頃には製品展開には行き詰まっていたと思われます。

ダイオンの寺平太一社長は前月の1984年6月に倒産を社員に告示したそうですが、ヤマキ楽器の生産縮小劇はある程度の必然性こそあれ直接の原因とは予想しがたく、むしろピービー特約店会議と6月開催のNAMMショーを受け、すでに身動きが取れぬほどピービー製品につかり、また新たなC.I.展開にともなうダイオン・オリジナル・ブランドのマーケットへの浸透性の浅さや展望も不透明なダイオンからすれば他に選択肢のない唯一の決断だった・・・と想像するところです。

No.50/★★★★
実際にヤマキ楽器製造のアコースティックギターはいつごろまでダイオンに供給されていたのでしょうか。ヤマキ楽器製品群の最終的な製造時期を教えて下さい。


ヤマキ楽器がダイオンにアコースティック製品を出荷していた最終時期は残念ながら不明です。

しかし、中洲から四賀への工場移転が完成品としてのアコースティック&エレクトリック・ギター製造を断念した時期であることはヤマキ楽器からの回答からもほぼ間違いない様です。

多数資料等を調査する限り'83年2月開催のフランクフルト国際楽器見本市ではダイオンがアコースティックを多数展示していることや同年10月開催の「'83楽器フェア」用にヤマキ楽器ブースが確保されていた事などを踏まえると、少なくとも'83年6〜7月頃まではダイオンに対する供給体制下であったと推測されます。(※「'83楽器フェア」ではヤマキ楽器の展示はなく、代わってダイオンが販売拡張していたピービー製品で埋められている。)

また、1983年4月頃までヤマキ楽器に在籍されていた伊藤秀彦氏の談によると、在籍期間中に四賀への工場移転はなかったという裏付けも得られています。

上記経緯を踏まえるとヤマキ楽器工場移転劇の大きな決断の要因となったのが同年6月開催のアメリカNAMMショーで、このショー期間中に期待するような受注をダイオンが確保出来なかった・・・というのが大筋の経緯ではないかと想像しています。

この'83年NAMMショー後頃と思われるダイオン・寺平氏のコメントの中には次の様な一文が見受けられ、ヤマキ楽器への想いの全てを語っているようにも感じます。

「もしギタービジネスが活性化してきた場合、市場にギターがあふれるようなムチャな輸出をしないようにしたい・・・。」


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