懸案のヤマキズムですが、実は最終稿としての自身の想い描く構想案まで至れそうにありません。手に届きそうで届かない最後のケジメとでも申しましょうか・・・。

「ヤマキズム」自体如何なものかと眉をひそめる見識者もあろうかと思われますが、私的研究サイトである以上あくまで一個人の参考意見として留めて頂けましたら幸いです。

ヤマキズムを語る前に、楽器産業について触れておきたい・・・。

バイオリン界では、鈴木政吉翁が西洋楽器導入の黎明期より国産化の礎を築き、以降、弦楽器はバイオリン属を中心に愛知県が地場産業的生産拠点となったのは言うまでもない。

しかし、太平洋戦争勃発以降、弦楽器の生産もままならぬ状況下、楽器製造禁止令とともに職を失した楽器職人達は、愛知にとどまる術もないままにその技能の多くは生きる術を求め地方に拡散していった。

終戦そして戦後復興とともに平和産業が時流にのり、芸能・音楽としての嗜好品であるギターが巷の人気商品となり爆発的にギターが売れ始めた。腕におぼえのある楽器職人達に好機が訪れた。

戦争という鬱屈した時代から解き放たれた国民が自由を謳歌すべく一様に求めたのが大衆娯楽としての芸能・音楽であり、ギターだった。ある種、リバウンド現象たる未曾有の歓楽エネルギーが、ギター産業化への追い風を生み出したと言えるでしょう。

戦後、弦楽器といえばバイオリン属ではなくギターだったのは注目すべき点だが、戦前、セゴビア来日によりギター界にもたらされた衝撃、その後、古賀メロディーとともに大衆化されたギター、あるいはアメリカのジャズ音楽の台頭やダンス・ホールの流行などを踏まえれば、音楽の嗜好変化がそれまでの土壌を変えつつあったというべきだろう。

さて、戦後の平和産業に乗じて腕におぼえのある楽器職人は各地でギター製造を始めた。法外な物品税を課せられる中、各地でギター製造工場が生まれては消え、そうした中、新たな生産拠点となったのは港湾都市たる愛知・名古屋ではなく山深い信州・長野だった。

戦後ほどない物資の乏しい中、ギター製造を試みる小さな工場が現れると、次第に需要が追いつかぬほどの商品となり、押し寄せる需要をまかなうべく次々とギター製造を試みる木工会社が信州に生まれた。信州・長野にギター産業圏を形成するなか、突出したのが林楽器製造株式会社だった。

ピーク時には信州メーカー総数5,000台をよそに林楽器だけで6,000台を生産していたとする記述も見受けられるほど、すさまじい生産量を誇り、その林楽器製造に縁故関係から入社していたのが、後にヤマキ楽器あるいはダイオンを創設する寺平一幸氏(兄)、寺平安幸氏(弟)である。

ここで断っておくが、何も寺平氏の名を挙げたいがためにこれまでを前置きとして書いた訳ではない。

話はやや前後するが、戦後の日本がなぜ工業国として急成長を成し得たかと言えば、様々な理由が挙げられる中、軍需産業・兵器産業を支えるべく日本の知能が国内に留まっていた点は見逃せないと思っています。軍事・国防に結びつく先端技術者を養育する機関に身を投じていたエリート達の存在です。

終戦後、これらエリート集団の工業力的技術・技能のわずかな矛先が平和産業へ向けられたことで、ギター製造業も産業に至る恩恵を得られたのではないでしょうか。

戦前より軍需産業が事業の柱でもあったヤマハ以外で、戦後のギター産業で大きな躍進を遂げた、エレキ・ギターのテスコ、生ギター(アコースティック・ギター)の全音ギター製作所のいずれのキー・マンに共通する重要な要素であり、ギター産業論でこれまで語られることのなかった重要な論点であると推測しております。

全音ギター製作所は、近代工場化に取り組んだ最初のギター工場と言われ、コンベア・システム導入も業界初であると語られていますが、おそらくは所長である寺平一幸氏の手腕なくしては実現し得なかった事でしょう。それほどに氏は機械工学に精通し、木工と機械化を融合させる技術や発想は、やがて全音ギター製作所の生産協力会社たる“全音グループ”を形成することで、生産技術を浸透・波及させ、信州ギター産業の地固めを担ったことと思われます。

1967(昭和42)年9月19日、全音ギター製作所を退職した寺平一幸氏は、ヤマキ楽器(株)を創立します。

以来、寺平氏は名古屋・愛知圏の伝統あるメーカーに手工的生産では太刀打ち出来ないため、後発メーカーとして機械化の融合による生産力向上は必須であるという信念の下、氏の資質は遺憾なく発揮される事になるが、同時に、オープン主義のもと新技術導入を絶えず業界に公開し、業界全体の発展に役立つならばという姿勢を崩さなかった点は特筆すべきである。

新技術を他社に容易に真似されてしまう、と従業員には一様に不評だったが、「機械が仕事をするのではない。使うのは人間、それが技術」「良い製品を造るのは、方法や機械等ではなく製造にたずさわる者の技術力で有る」と云う信念には、今更ながら感服する所です。

パテント相当の数々の斬新な生産技術を独占することなく共有させてきた事で、結果的にはその功績として日本のギター産業界の発展・躍進を担い、業界の底上げに寄与してきたに違いない。

寺平氏の業界的活動としては、既に全音ギター製作所時代から代表として各協会行事に参列し、長野県楽器輸出産業協同組合では、理事長・矢島正義氏(河合系列下の新興楽器製造)を筆頭に、副理事長の重責を務め、ヤマキ楽器時代の1971(昭和46)年、長野県楽器製造協会が創立された際も、副会長の重責を務め、横内祐一郎(富士弦楽器)その他関係者と共に業界指導者としても長年尽力されています。

全音ギター製作所の所長時代は労働運動盛んな時代であり、ビクターのピアノ生産を巡る不調、エレキギター熱の急激な冷え込みによる不調等による賃金ストの経験からか、ヤマキ楽器は労働環境の改善を業界内でいち早く取り組んだ企業である。

信州の諏訪湖を望む地に時を同じく際立つ二つの資質が同時代的に出現したのは、まさに驚くべき歴史的奇遇と言えよう。寺平一幸氏と双璧を成す田原良平氏の存在である。

田原氏は工業化学科出身であり、寺平氏とも身上がやや酷似する。後に両氏が同じ全音に所属することになる奇遇も、ギター産業界にとっては幸運な事である。

共に認め合う天性の資質を備えたライバルの存在が相乗効果をもたらすかの様に、両氏のギターは、すでに1970(昭和45)年の時点で、ほぼ完成の域にあると言えるほど、その後の70年代を通じても他を寄せつけぬほど突出した存在である。

自身は寺平・田原両氏の存在とともに思い浮かべる史実がある。それは余りにも酷似するが故であるが、同じような偶然というものは、不思議ではあるが“必然”として起こりえる様だ。その必然というのは、レオ・フェンダーとポール・ビグスビーの関係である。

フェンダーもビグスビーも、車でわずか数十分足らずの場所で共にギター作りをしていた。フェンダーのスティール・ギター製造ほどの経験からすれば、ビグスビーはスティール・ギターのみならず既に完成の域にあるソリッド・エレキ・ギターを個人向けにカスタム・ビルドしていた異才。

後にフェンダーは量産化されたファクトリー・メイドのソリッド・エレキ・ギターで成功を収めるが、マール・トラヴィスが自慢げに手にしていたビグスビーによりカスタム・メイドされたソリッド・エレキ・ギターとの出会い無くして、それは起こりえなかったと言える。

しかし、同時にフェンダーの天性の工業デザイナー的感性なくして新たなソリッド・エレキ・ギターの幕開けも起こり得なかった。

時代・場所は異なれど、同じギター製造界にビグスビーたる田原氏とフェンダーたる寺平氏が、信州の諏訪湖を望む地で共に共鳴し合うかの様にギター製造界に意義ある大きな足跡を刻んで行くのですが、敬愛する田原氏に関しては、相応の研究論文になるがゆえ残念ながらこの辺で終わりたい。

1970年(昭和45)、寺平氏は40代の円熟期を迎える中、ヤマキ・ギターは同年新春リニューアルする。そのリニューアル最高峰たるF-185(8.5万円)、F-165(6.5万円)が、翌1971年(昭和46)リリースされるが、ヤマキ集大成モデルと言えるほど入念に製作されており、実質、ヤマキズムを極めたモデルとして玉座するものではないだろうか。

自身が念頭に置く「ヤマキズム」とは、この後のギター・マーケットの主流となるギブソンやマーティン等のモノマネでも、ヘッド・デザインを変えた程度のまがいモノでもなく、自社製品としてどこまでオリジナリティを昇華し得たかという点にあり、一線を画したい点でもあります。

1972〜73(昭和47〜48)年頃を境にギター産業界がマーケットの主流、売れる商品としてのモノマネに移行してしまった経緯を踏まえれば、国産ギター界のオリジナリティを語る上では、この辺あたりが限界かも知れません。

さて、ヤマキ・ギターらしさを製品から伺えば、スケール、ボディ・サイズ、ネックの薄さ、弦高の低さが共通した要素となっている。加えて特筆すべき点は、絶えず同時代を先行してきた機械化によるスケール・メリットであろうか、他社製品に比べ対価的クオリティの高さも上げられるだろう。

1971年(昭和46)リリースされたF-185、F-165で言えば、トップ・バインディングに螺鈿細工が施されていおり高級品たる由縁でもあるが、ヤマキの屋号的象形細工となっている。螺鈿細工ギターは多々あれど、ここまでこだわった製品が他にあるだろうか。ネック・ボリュート加工にも独自のこだわりが感じられる。

いわゆる最初にして最後のヤマキ・フラッグシップ・モデル的存在感を感じざるを得ない。同時期、高級品をリリースするに至れる程、既にヤマキは機械化に加え手工レベルでも充実した時期を迎えている。

自身は、かつて1971(昭和46)年4月製造のF-150(当時5万円)をtsuna_ryoさんより資料提供された事を2005年5月29日の「あとがき」で触れている。勿論、こんな事は希なケースですが、割れ、剥がれなど過酷な戦歴が刻まれたまま現役を終えたギターとはいえ、そこにはしっかりとしたヤマキズムが見て取れます。

低く抑えられたフレットと弦高、独自のナット仕様、薄いラウンドネック、ブライトな音色を狙ったシダー・トップ、国産の特徴でもある僅かに浅めのボディ厚、音のバランスに配慮した非対称Xブレーシングなどなど。最初期のヤマキ・ギターでは内部ライニング材などやや粗雑な加工ですが、同時期には工法も近代化され高度な品質と化している。

自身がもっとも驚いたのは加工精度の高さである。自身のバイオリン作り経験則上の比較になるが、ホール・バインディング部(いわゆるロゼッタ)の木製リングはバイオリンのパーフリングなど比較にならぬほど細い木材で、手工バイオリンを遥かに凌いだモノ作りの精度に驚愕してしまった。そこまで情熱を注がれた製品を精査しながら、ある種ヤマキズムの熟成の域を感じ取れるものでありました。

これまで自身が早熟にしてヤマキ独自とし、後年ヤマハが広告・宣伝力を生かして“売り”の独自要素に加えた“非対称Xブレーシング”ですが、寺平氏より明確な記憶・回答を得られぬまま、自身も確証に導けぬ点は心残りです。

“非対称Xブレーシング”では、“ヤマキ”ブランド最初期たる1969(昭和44)年から導入済み。しかし、同社のフォーク&ウェスタン・ギター製造元年たる前1968(昭和43)年のハモックス(Hamox)ブランドのOEM製造より導入された仕様と見て良いだろう。

上述した1972〜73(昭和47〜48)年頃を境に、ギター・マーケットの主流は単にマーティンやギブソン、ギルド、ギャラガーなどのコピー・モデルへと移行する中、オリジナルゆえ徐々にシェアを失い始めるダイオン&ヤマキ。

ダイオン&ヤマキの次なる選択は、他社と異なるアイデンティティ、魅力ある新たなオリジナリティだったが、それら要素は自社独自と言うよりも、マーティンやギブソンほどの主流派ではないアメリカ・ブランドの模索であったようで、筆頭のハープトーンのみならず、いくつかのモデル的要素には絶えずアメリカ製ギターの影・姿が見て取れます。

ダイオン&ヤマキがこれまで仕様変更して来た過程には、本場アメリカ製キターのなにがしかの影響が見受けられます。参考となるアメリカ製品の輸入や現地調査、仕様アイディアを含め、その橋渡し役たるダイオンの寺平安幸氏(弟)の存在・役割も見逃せません。

結果的にはそうしたディディールの違いが他社にはないオリジナリティとなり、国内メーカーの中でも、ヤマキは絶えず革新的先陣を切るブランドとなる。ダブルネック・ギターへの挑戦、オーダーメイド・システム導入なども見逃せない。

オリジナルとコピー・モデルの二本立て製造体制から、やがて1978(昭和53)年には寺平安幸(太一)氏のご子息が新たな戦略を引き継ぐ事になるが、自身のヤマキズムの観点から言えば、1971(昭和46)年のF-165(6.5万円)、F-185(8.5万円)で締めくくられるのが本題の主旨に叶っている様に思います。

何をもってヤマキズムとするかは、人それぞれの感じる所以の多くのヤマキズムがあると思われます。自身の感じる所以のヤマキズムの一端が何かしかの参考に成り得れば幸いと願いつつ、以上で本稿を締めくくらせて頂きます。(2008年8月吉日)


●デッサン作/愛称:ジョブリン
※転用厳禁ッス!











 
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