最初に、ヤマキ楽器を語る上での1つのキーポイントが、「兄弟」である点です。楽器産業においては、しばし良くある事ですね。ヴァイオリン製作の第一人者である宮本金八氏に師事し、後のガットギター製作で名を成した中出阪蔵氏とその兄弟は、つとに有名です。

ヤマキ楽器は、寺平(てらだいら)兄弟の兄により、東洋のスイスと例えられる精密工業地域であり、同時に楽器メーカーが多数点在する長野県は諏訪地方に設立されました。以下は、設立に至るまでの略歴です。

1949年 長野県上伊那郡辰野町にあった林楽器製造(株)に入社。
同社は、終戦まもない1946年8月からギター製造に乗り出した(有)辰野木工が、翌1947年 株式会社に改組してほどなく内紛を生じ、1948年1月 新興楽器製造(株)設立と前後し、辰野木工から改称した
林楽器製造(株)に分裂再編され発足した。
寺平一幸(兄)氏はギター製造を担当、寺平安幸(弟)氏は経理・営業を担当。

1952年6月 林楽器はグローリヤ・ギターのヒット商品に恵まれながらも物品税脱税問題が発生し倒産、新興楽器に吸収合併される。(※倒産当時の楽器物品税率は30%)

同年 林楽器の専務・栗林国雄氏が有志を引き連れ、諏訪市茶臼山に五十鈴楽器製造(株)を設立し、これに兄弟ともに取締役として参画。(※この時、弟の
安幸氏は若干22歳という異例の若さで役員に就任。兄の一幸氏は3歳年上)

1954年5月 過重なる物品税による会社業績悪化のため、会社閉鎖後、(株)全音楽譜出版社の傘下となり、社名も新たに全音ギター製作所となり、兄の
一幸氏は初代所長を務める。(※倒産当時の楽器物品税率は20%)

1957年 (株)全音ギター製作所に改組。正式に
社長・島田貞二氏(全音楽譜出版社社長兼任)、所長・寺平一幸氏、工場長・新村幸作氏が就任、兄弟ともに取締役に就任する。栗林国雄氏は全音楽譜出版社・常務、また設立まもない全音大阪支店長(1954年3月設立)を兼任する。弟の安幸氏は、経理業務担当となり、後に全音大阪支店に転勤。(※この事が、大阪における(株)ダイオン設立の基となる。また、栗林氏の常務→専務 or 専務→常務の経緯は不明。)

1962年11月10日 
寺平安幸氏は(株)ダイオン【資本金:200万円 大阪市淀区天神橋筋7の3】設立。同社は信濃楽器工業(株)(諏訪市四賀に所在し、全音ギターの下請けから独立した楽器メーカー)の専務・寺平太一氏(太一氏と安幸氏は同一人物)が、同社製品の販売部門として大阪市に開設したもの。専務に河西康夫(前・全音大阪経理部長)、取締役に信濃楽器・社長の志村七男人氏が就任。(のちに寺平一幸氏が取締役、栗林国雄氏が会長として参画)ヤマキ楽器設立後は、ヤマキ総販売元となる。
(※ダイオン設立は1964年頃とする有力な資料等も存在する。)

1967年4月1日 専務・栗林国雄氏は、全音大阪支店新社屋完成とともに全音東京本社に異動、8月には第一線を退き退社。その後、ダイオンおよび信濃楽器の会長に就任、ダイオン東京支店開設に尽力ののち勇退し、1968年2月1日 栗林楽器(株)を大阪に設立する。

1967年9月19日 
寺平一幸氏は(株)全音ギター製作所を退社後、(株)ダイオンおよび信濃楽器工業(株)の取締役となりながらもヤマキ楽器(株)【資本金:400万円 諏訪市大字中洲字中通3047】を設立。すでに7月から着工した本社工場建設も年末に完成し、翌1968年1月から本格稼働とともに「山幾(ヤマキ)クラシックギター」4機種がダイオンより発売される・・・。

略歴からは、氏がちょうど40歳という節目にヤマキ楽器を創立され、ヤマキ製品に見られるブランドスタンプ(焼き印)等の「SINCE 1954」は、全音ギター製作所の初代所長就任時期である事が伺い知れます。

社名の「ヤマキ」に関しては、原名を「山幾」に由来し「山の木が喜ぶ」という意味の本、「木の本質を活かした楽器を作る」という事から命名され、一方の「ダイオン(大音)」は、阪において響関連の物品の卸販売という事から命名されたそうです。

ダイオンは、1967年6月には大幅な人事刷新とともに、広く楽器を取り扱う総合弦楽器卸商へと脱皮し、9月には、東京支店、通称「東京ダイオン」を開設、営業を始める。その後、国産弦楽器の輸出を始め、商品の仕様・企画を発案、キャンペーン展開するなど、総合プロデューサー的役割を担いながら、取扱い商品を広げていった様です。

輸入に関しては1971年8月の「バングラ・デッシュの難民を救済するコンサート」で、元ビートルズのジョージ・ハリスンが使用し脚光を浴びた「ハープトーン(米製)」を輸入販売すると共に、ヤマキ製品中にもバッファロー・シリーズとして展開するなどにより、ハープトーンのコピーメーカーとの印象も残した様です。

'60年代のヤマキに関しては、創業当時の山幾クラシックギターの製造と時を同じく、OEM等を含めフォークギターの製造を増やしていった様です。1968年9月には、ダイオンからHamox(ハモックス)、同9月20日には、栗林楽器からFolks(フォークス)フォークギター&エレキ・フォークが発売されています。共にヤマキ製。
(※Hamox、Folksは、後に製造メーカーを変えています。)

さて、いよいよ'70年代に入ると、フォークブームの追い風と共にダイオン主導の下、多くのモデル群を輩出することになるが、楽器の製造・設計・開発のノウハウは、全てヤマキ楽器における創意工夫によるもので、製造スタンスは完全にダイオンから独立していた様です。ただし、製造品目の仕様・企画・デザイン(ロゴ等のデザイン含む)等は、ダイオン主導の下、協議進行された様です。

1972年中期以降頃からFシリーズの最高峰モデルの試作とともに翌73年、F-1100、F-1150、F-1200(No.1100、No.1150、No.1200)といったポスト・マーティン・モデルを発売すると同時に、多くの国産メーカーに影響を与える数々の発明を成し、'70年代国産フォークギターの発展に不可欠なものとなっています。

'80年代に入ると、フォークギターは完全に下火になり、ダイオンは活路の選択肢として、「木工」から「エレクトリック」、「コピー」から「オリジナリティ」、「国内」から「輸出」へと大きく方向転換を迫られる中、自らの社名を冠したエレキ・ブランド「ダイオン」を立ち上げるなど、よりオリジナリティにこだわったモデル群を展開することにより、ヤマキ製品群にも、エレアコが登場するなどにわかに変化が見られます。

'83年半ば頃になると、ヤマキ楽器は、同じ諏訪市内ながら創業地の中洲より四賀へと生産拠点を移す事になるが、これがヤマキ・ブランドの事実上の終焉であった様です。移転に伴い、設計図・関係資料等の多くを処分された事により、今日では製造関係者の記憶のみがヤマキ楽器の手がかりとなってしまった様です。

この後、'84年7月、ダイオンの倒産。'80年代は、高品質の製造技術を身につけたそれぞれの製造メーカー自身が、生き残りを賭けた独自路線の模索を始めた時期でもあり、ブームという流行に絶えず便乗しコピー文化を謳歌し繁栄を続けてきたギター産業界に訪れた本当の試練たるプロローグの幕開けなのかも知れません。

ヤマキ楽器は、ダイオンと連鎖倒産する事なく、現在に至るまで楽器関連製造業として操業を続けています。(2002年4月16日現在)ヤマキ・ブランドのフォークギターが途絶えて久しい事により、多くのアコギ愛好家の間では、ヤマキ楽器の倒産が疑いようのない事実となりつつあった中、現在に至るまでヤマキ楽器が存続され、楽器産業界で貢献し続けているのは、実に嬉しい事です。

本稿最後は、ヤマキズムを伺い知るに相応しい、寺平氏自身から寄せられました一文の引用にて締めくくりたいと思います。

『パテント(特許及び実用新案等)に関しては、一切申請は致して居りません。業界初の製造方法、又は専用加工機等、幾つもの発明をして居りますが、総てを公開して参りました。(工場見学を含む)これは、良い製品を造るのは、方法や機械等ではなく製造にたずさわる者の技術力で有ると云う信念を持って居りましたから、このお陰で私も同業他社の工場見学も自由にさせて頂き、色々と勉強をさせて貰いました。』


 
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