ヤマキの手がかりとしてヤマハを例に挙げる事は、案外的を得ているんじゃないかと思ってます。直接関係ない事柄でも、道しるべとなってくれる様な気がします。

時代を検証してみると、'60年代中期の「昭和40年恐慌(1965年)」頃を境に、物価のスライド・振幅が徐々にはずみが付き始め、日本経済の成長に伴う景気の上昇と比例するように物価の上昇が表面化し始める時期でもある様です。

さて、'60年代中期以降、ヤマキとヤマハはクラシックギター製造に加え、足並みを揃えるようにフォークギターの分野を歩み始める様です。

ヤマハのフォークギター開発は、当初は海外事業部の要請による輸出目的であった様です。にも関わらず、自社初のフォークギター「FG-180」「[FG-150」が国内優先発売されたのは、海外デビューの舞台・シカゴ楽器ショーでの出品が間に合わなかったといった単なるタイミング的な結果と思われます。

今日では信じられない事でしょうが、当時は純国産フォークギターそのものが無いに等しい時代であったので、新たな分野の楽器として一から開発が必要な楽器だった事は、改めて驚きます。

まだ認知度がない当時は、ウェスタンギターとも呼ばれていた様で、'60年代初頭からのロカビリー・ブームとたぶんに関係ありそうな呼び名ですね。小型のOO(ダブル・オー)・OOO(トリプル・オー)サイズをフォークギター、D(ドレッドノート)サイズをウェスタンギターとする独自の呼称分類が定着していた様です。

'66年10月、ヤマハは初のフォークギター、FG-180(定価18,000円)、FG-150(定価15,000円)を発売。大卒初任給平均が約25,000円の時代に高いと思われるでしょうが、ヤマハとしては、普及価格帯を意識しての発表であったと思う。少なくとも当時の流行品であったエレキギターと比べたら、安値感は十分あったでしょう。

'67年6月、アメリカのシカゴでは、春のフランクフルト・メッセと並ぶ世界最大の楽器産業の祭典、夏のシカゴ・ミュージック・トレード・ショーが開催され、ケネディ・ラウンド(関税一括引下げ交渉)妥協により、主要楽器のアメリカでの関税率が5年間に半減する(ギター関税:'67年度34%〜'72年度17%)といった対米輸出の変革を捉え、ヤマハはこのショーに総力を挙げて参加する。

翌年のトレード・ショーまでの1年間の商談が決定してしまうアメリン・マーケットで、ヤマハ・フォークギターは実に高い評価を得た様で、バイヤーの間では、既にギブソン、マーティン、ギルドに継ぐとの評判さえ上がっていた様です。

さらにトレード・ショー後の7月頃には、アメリカにおけるヤマハ・フォークギター広告が、米国代理店協会から'67年度広告「金賞」を授与され、現地法人ヤマハ・インターナショナルは、西部における第22回広告展示会から賞状を贈られるという栄光を手にする。

'67年7月に発売されたヤマハ・グランドコンサートシリーズのGC-10(定価125、000円)は、初の高級手工クラシック・シリーズ最上位のもの。NHK教育3チャンネルでは、きっとクラシックギターの教育番組が流れていたような時代だったんじゃないかな。

同1967年9月19日、ヤマキ楽器(株)設立。年末には本社工場竣工とともに本格的生産稼働開始。

ヤマキ、ヤマハ共に'60年代は、時代のニーズでもあった普及価格帯の量産化と言う点で、共通している。とは言え、時代はまだまだクラシックギターの天下だった様だ。フォークソングの息吹こそあれ、需要生産数は言うに及ばず、高級手工品クラスは、国内・外ともクラシックギターばかり。

ヤマキ、ヤマハのフォークギターとの歩みと呼応するかのように、アメリカはベトナム戦争に突き進み、時代は反戦ムードが高まる中、日本は軍需景気に便乗するかのように成長をとげつつあった。'60年代末、ベトナム戦争の泥沼化は、反安保闘争、反戦集会が入り乱れる中、アメリカは弱体化し、日本は高度成長の波に乗っていた。自国の繁栄の一端に戦争による軍需景気があった事を考えれば、実に複雑な時代であった。

'68年末には、第1次エレキ・ブームの衰退に伴い、ヤマハはエレキギターの製造をSTOPする。以後、第2次エレキ・ブームの兆しを見せる'72年4月、SG新シリーズを販売するまでの3年間、一切のエレキギター&ベースの製造はしていない。

正確にはエレキギターの生産量が数年来に渡り落ち込んだ結果であるが、直接の原因は、アメリカでのエレキギター・ブームが去った事による輸出量の落込みによるものであり、特に'68年6月の生産量の激減は、少なからず国内マーケットにも影響を与えた様だ。

世はあげて神武景気以上の好景気と言うのに、ひとり楽器屋さんのみ景気に乗り遅れているといった様相であったとも言われている。

'69年、テスコ弦楽器に依存していた関連エレキ・メーカー、その他の倒産が相次ぐ中、グループザウンズに代わって台頭してきたのが、フォークソングであり、フォークギターだ。事実、'69年はフォークギターの生産がエレキギターを追い抜いた年であり、フォークギターの需要比は前年の4倍にも達している。

とは言え、国内需要はまだそれほどでもなかった様だが、アメリカ・マーケットでのエレキ・ブームの終焉による、特にソリッドボディのエレキ・ギターの冷え込みによる反動として、反比例するがごとくフォークギターや特にクラシックギターの輸出に拍車がかかった様で、輸出に力を入れていた国内メーカーには、ケネディ・ラウンドによる関税率の引き下げも嬉しい追い風となった様です。

ヤマハは、'68年末、エレキギターを製造中止する一方で、前年のシカゴ楽器ショー以来、既にFGシリーズのフォークギター輸出が始まり、フォークギター生産にシフトする中、'69年5月、それまでの量産ラインで作り得る上級モデルFG-500(定価50,000円)を発売。

ヤマハのこの動きに前後して、ヤマキでは、「ヤマキ手工FOLKギター」と謳われる中級〜上級クラスに当たるフォークギター群の製造がこの頃から始まった様です。FG-500に先駆け、すでに3月頃にはフォークス・ブランドから5万円クラスの手工フォークを発売。

サイド・バック材に単板材を使用した総単板製を含め、いくつかのバリエーションを含めた手工FOLKモデルの製造が始まり、それは同時にフォークギターという楽器を模索していた時期でもあった様に思います。

フォークギター黎明期とも言えるこの時期、ヤマキは、模索しながらも総単板製のフォークギター群を製造していた事は大変深い意味合いを持つ様に思います。楽器製造メーカーとしての資質の高さが伺い知れる一端かも知れません。

また、ヤマキ手工品には、シリアルがボディに打たれず添付タグ類に明記されている事により、後年マーケットに出た際には、添付タグ類がほとんど紛失している事により、一層年代特定を困難なものにしている様に思います。

'70年、大卒初任給平均が41,000円。'60年の大卒初任給平均16,000円、'65年の大卒初任給平均22,850円から比較すれば、'60年代のわずか10年間で日本がいかに豊かな国家へと変貌をとげたかの様子が伺い知れると思います。同時にそれは、フォーク文化が開花する新たな時代の到来を告げていた様です。

'71年3月、ヤマキは高級ギターの先駆けとなる国内最高峰・F-185(定価85,000円)、F-165(定価65,000円)を発売する。エントリー・モデルから最高級手工モデルまでのラインの完成である。このマイナー・チェンジ期にヤマキ独自の非対称Xブレーシングが初めて導入されたものと思われます。

'71年6月、ヤマハはそれまでの量産ラインとは異なる高級手工フォークギター、FG-1500(定価130,000円)、FG-2000(定価150,000円)を発表。

このヤマハの高級手工フォークギターの発表は、富国日本へと変貌しつつある時代の大きな勢いをも感じます。量産メーカーの論理による普及価格帯の規格量産品のモノ作りと同時に、時代に即した新たな需要へ取り組み始めた事の現れでもあると思います。

ヤマキも追従するように'72年半ば頃より「F-1100」(定価10万円)「F-1150」(定価15万円)「F-1200」(定価20万円)といったポスト高級手工フォークギターの開発に着手する。と同時に、この時期を境にポスト・マーティンをはっきりと意識した『対抗馬』としての製品群を打ち出した様です。

同時にそれは戦後マーティンを標榜するかの様に、トップ材はそれまでのシダーからスプルース(えぞ松)単板へと変更され、L型ネックブロックに加え、梁を持つ新構造ネックブロック等を導入し始めた時期でもある様です。

新たな需要へのチャレンジとしてのヤマハはもとよりこれらヤマキの国産高級フォークギターに需要があったかと言えば、残念ながらそうでは無かった様で、実際にはまだまだカタログ的要素が強かったのが現状の様です。

豊かに変貌を遂げる日本と、方やベトナム戦争に伴うドル危機を受け、'72年12月18日、スミソニアン協定を受けて'49年より21年間続いた1ドル=360円の固定為替相場が1ドル=308円に変更された。時を同じく5月15日に迎えた沖縄返還と併せ、敗戦国日本から脱皮した象徴的な出来事であったに違いない。

とはいえ対米輸出に依存している日本ギター製造業界は、このレートの変動だけでも16〜17%の円切り上げ(値上げ)を意味するだけに、価格調整には困難を要したようである。

ヤマキも模索から大きく脱皮する時期を迎えようとしていた。'73年3月、Fシリーズ(またはNo.のみ)の「1100」「1150」といった新たな高級手工フォークギター群の発表である。同じく「R」シリーズも翌年に登場した模様。

模索からの新たな答えとしてヤマキは、トラスロッド調整をボディ内部から行えるメカニズムを発案・導入するとともに、モデルにより梁型ネックブロックに一新する等、以降ヤマキ製品の基礎がここに完成する様です。

判明している添付タグから、「1100」手工品第1号は、3月16日製造。「1150」手工品第19号は、10月18日製造の事実が浮かび上がってくる。各モデル月平均3本ペース程度であった事が推測でき、高級手工品の国内需要状況が伺い知れるところです。

既に幾多のメーカーがフォークギター製造に参入し始め、フォークギター産業界は順風満帆だった様だ。そんな折り、思わぬ事態が起こる。'73年10月24日、サウジアラビアの原油70%値上げ通告である。

第1次オイルショックと呼ばれる原油価格の高騰は、日本の様々な物価に影響を及ぼす事となる。トイレットペーパー騒動は、その象徴的な出来事として語られている。

ギター製造に関しては、石油化学製品・パルプ・鉄・真鍮の高騰により、包装類ポリエステル・ポリエステル塗料・セルロイド・プラスティック・接着剤、包装用カートン・研磨ペーパー、弦・・・とほぼ全域に至り、人件費の高騰もすでに問題化するなか深刻な影響を受けることになる。

木材価格にも相当の影響があった様で、'72年6月、既に「緑ラベル」と呼ばれるモデルチェンジにより多くのバリエーション展開していたヤマハは、資材高騰による価格調整・資材調整をせざるを得なくなり、'74年7月には俗に「黒ラベル」と呼ばれるモデルチェンジを迫られる。

ヤマキに於いても、'73年から'74年には様々な仕様変更が見られる様ですが、'73年と'74年では、その仕様変更の意味合いがヤマハ同様違っているものと想像します。

オイルショック以降、普及価格帯の製品においては僅かな値上がりはあったが驚くほどではなく、製造および売れ行きも引き続き絶好調であった様だ。価格調整・資材調整をうまく乗り切ったと言えるだろう。

とは言え、単板材仕様やフラッグシップ・モデルともなると、さすがに資材にごまかしは利かない様で、オイルショック後の'74年7月ヤマハから発売された「L-31」(定価200,000円)は、FG-3000とも受け取れるモデルで、資材高騰を価格に表したものとも言えるかもしれません。

「L-31」も、先の「FG-1500」「FG-2000」開発から比較すると、明確にマーティンを意識した上での改良が加えられた、ヤマハ流ポスト・マーティン・モデルの様です。

ヤマキは、'74年から'75年頃にかけて様々なモデル、シリーズを発表し、そのバリエーションを大きく広げていった時期である様に思います。また、楽器自体の仕様構造が安定し、ヤマキとしての幅広い完成を見た時期でもある様に推測しています。

この時期の資料としては、「楽器の本 1976」(プレイヤー・コーポレーション刊)が広く知られる所と思います。YWシリーズ、YMシリーズの一部が掲載されています。新たなデザインとしてYWシリーズが加わった旨のキャッチコピーが見受けられますが、両モデルとも'76年4月にリリースされ、全面的なモデル・チェンジが図られています。

変わったところでは、スガノ楽器製造による通販ブランド「CANYON(キャニオン、正式名称はグランドキャニオン)」の一端を担うOEM製造の参画も'76年に始まった様です。

フォークソング・ブームと共にそれまでのカテゴリーには無かったフォークギターが、国内の多くのメーカーの参入により純粋培養され開花していく中、アコースティックギターの需要は'72年をそのピークに次第に下降線を辿り始めます。

'60年代、フォークソングは、反戦・反安保の時代のうごめく中、自身の内面を模索するインテリジェンスな若者の心の叫びであったかもしれない。

しかし、平和と豊かな社会へと変わりつつある'70年代は、若者向けの情報文化が花開く中、若者達の意識が大きく変貌しつつも新たな娯楽を模索し始めた結果とも受け取れる様な、新たな時代のムーブメントと共に新たな変化が起き始めていた様だ。

折しも'72〜'73年頃から、新たなムーブメントに伴う第2次エレキブームの波が押し寄せ始めていた。デッドコピーとコストパフォーマンスの2面性から各社参入し、コピーギター戦争を展開し始めた時期でもあり、'75年ダイオンは、同年8月に新興したダイナ楽器にエレキ部門の製造をゆだね、第1期エレキ・ブランド「Joo Dee(ジョディー)」で参入する。

不思議なことに歴史は繰り返されるかの様に、エレキブームの衰退からまさに10年後の'78年頃になると、フォークギターは急激に生産量が落ち始めた様です。

同年よりモデル名に年号を冠する「THE YEAR シリーズ/THE '78」のリリースは、ヤマキの生き残りをかけた「オリジナリティへの模索」の一端であったのだろうか。'77年10月頃には大阪ワルツ堂との共同企画によるヤマキ‐カスタム、‐スペシャルといったSHOPオリジナル・モデルがリリースされている。

暗雲が立ちこめるとともに、同年未だエレキ界では熾烈なコピーギター・ウォーが続く中、ダイオンは活路を求めるかの様に、独自色を盛り込んだ第2期エレキ・ブランド「Yamaki(フォークギターと同名、同ロゴ)」、ハイコストパフォーマンス・ブランド「Founder(ファウンダー)」の2枚看板を同時スタート。

東海楽器が、かなり後発ながらもコピー・エレキ商戦に参画したのも同じ時期だ。背景には、'70年代中期頃よりの世界的なヴィンテージモデル・ブームという大きな潮流がある様だ。1976年、マーティンからリリースされたヴィンテージ指向の「HD-28」も、そんな一端を担うものかも知れない。

既にマーティンのデッド・コピーとして展開していた「Cat's Eyes(キャッツアイ)」とともに、新たな時代のニーズとしての高品質ヴィンテージ・レプリカ文化の原動力ともなり、東海楽器が導入した正確無比なコンピュータ制御NCルータ切削マシンは、量産システムに革新をもたらすことになる。

この様な状況下、追い打ちをかける様に'79年6月以降、第2次オイルショックがじわじわと再び日本を襲います。 フォークギターの需要が急激に冷え込む、まさに10年前のエレキ現象再来の中、再び資材高騰による価格調整・材料調整をせざるを得なくなり、ヤマキでは年度内に仕様変更調整を行っているのではないかと思われます。

恐らくハカランダ単板材仕様もこの頃から'80年を境にローズウッド単板やハカランダ合板へと切り替えている様です。

既に'78〜'79年にかけて製造および卸・販売の数社の相次ぐ倒産が物語るように、'80年代を迎える頃には大手ブランドメーカー品でさえフォークギターは通販ディスカウント販売される程、かなり深刻な状況下であった様です。エレキ衰退期同様、メーカー高級手工品と言えども、一部地域にあってはかなりのディスカウント価格にて流通していたであろう事は容易に想像が付きます。

'80年になるとダイオンは、それまでのコピーギター・ウォーに終止符を打つべく、また、それまでの「木工」から「エレクトリック」へと大きな方向転換の決意の下、オリジナルモデルを基本コンセプトとした第3期エレキ・ブランド「DAION(ダイオン)」をスタートさせ、カタログ等には、エレキ・ギター開発にともなうテクノロジーの導入によるエレアコ製品群もにわかに登場する。

この時期のダイオンは、エレキ・ギター、フォークギター双方に於いて、オリジナリティをより強く意識した製品作りにシフトしている観がある。

高品質レプリカ文化からは、メーカーの顔が見えてこないといった大きな負の遺産を築いてきた'70年代国産メーカーが、次に目指し始めた「オリジナル・アイデンディティ」への帰結でもあり、同時に「次世代スタンダード」の模索の始まりでもある様だ。

'83年半ば頃、ヤマキ楽器は、フォークギター需要の落ち込みを受け、諏訪市の創業地・中洲から同市内・四賀へと生産拠点を移転するのに伴い、完成品としてのヤマキ・ブランドの製造を断念した様です。ヤマキ・ブランドのアコースティック製品は、どうやらこの年をもって終わりを告げた様です。

'84年7月、ダイオンが倒産する。兄弟会社の倒産に、連鎖倒産の事態も考えられたであろうが、ヤマキ楽器は倒産することなく、操業を続ける事になる。完成品としてのブランド・メーカーから、半完成品の高品質パーツ供給メーカーとして、現在に至るまで楽器産業界で貢献し続けています。


 
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